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フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(4):『生活世界』」
2015年11月6日(金)、18時〜21時
同志社大学 室町キャンパス 寒梅館6階 大会議室
https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/muromachi.html

企画・司会:植村玄輝
報告者:吉川孝(高知県立大学)、*山口弘多郎(大阪大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2015年までの14年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.71冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第四弾として、今回は『フッセリアーナ』第39巻『生活世界:先立って与えられる世界とその構成に関する考察』(2008年刊)を取り上げる。これまでに刊行された全集のなかで分量が一番多い——編者序文と原文校訂注を含むと1000ページを超える——この巻は、メインタイトルからは若干わかりにくいのだが、さまざまなトピックを扱う草稿を収めている。それらの草稿で緩やかに共有されている問題は、この巻のサブタイトルにもあるように世界の現象学的な構成分析である。(この点を少しわかりにくくしているようにも見える『生活世界』というメインタイトルは、おそらく、ここでとりわけ問題になる世界が直観によって与えられ、そのかぎりで学問以前の世界であるためだろう。)本研究会では、この巻を二人の報告者による分担で、二つの角度から取り上げる。まず山口が、前半部(第I–III、V–VI部)を中心に「生活世界と周囲世界」というテーマで報告を行う。次に吉川が、後半部(第IV、VII–X部)を中心に「確実性、真理、規範」というテーマで報告を行う。これらの報告によって、この巨大な巻の見取り図がえられることが期待される。

タイムテーブル
18:00~18:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
18:10~18:50 報告1:山口弘多郎
18:50~19:30 報告2:吉川孝
19:30~19:45 休憩
19:45~21:00 ディスカッション
# by husserl_studies | 2015-10-01 18:36 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究第12号(2015)
研究論文
成瀬翔
ノエマと心的ファイル

松井隆明
現象学的還元と構成の問題:フッサール超越論的観念論の基本的構図

丸山文隆
ハイデッガーの超越論的観念論 :「ブリタニカ」草稿を手がかりに

満原健
西田幾多郎による志向性理論批判

Andrea Altobrando
The Limits of the Absolute Consciousness: Some Remarks on the Husserlian Concept of Monad

特集「フッサールと現代形而上学」
秋葉剛史
フッサールの性質構成論と性質の因果説

早坂真一
態度的対象の存在論と志向性:フッサールと現代形而上学の交差点

特別寄稿

中畑正志
志向性と意識:ブレンターノをめぐる覚書

フッサール研究会特別企画:鈴木俊洋著『数学の現象学』合評会より
秋吉亮太
鈴木俊洋『数学の現象学』に関するいくつかのリマーク

稲岡大志
最初の幾何学者はいかにして恣意性の鉛筆を折ることができたか?



フッサール研究第12号 2015年4月 目次(PDF版)

★★
論文の著作権は各著者に属する。また無断転載を禁じる。

凡例
本誌におけるフッサールの引用・参照は、基本的に『フッサール全集』(Husserliana)
にもとづく。『全集』の巻数とページ数は、それぞれ大文字ローマ数字、アラビア数
字で示される。(ただし、編者による序文の引用・参照の際には、小文字ローマ数字
が用いられる。)なお、Husserliana Materialien からの引用にあたっては、巻数の前に
「Mat.」という略号が添えられる。
編集:佐藤駿・鈴木崇志
# by husserl_studies | 2015-04-23 12:39 | 『フッサール研究』
「フッサールの新資料を読む(3):『超越論的観念論』と『論理学研究補巻』第一分冊」
2014年3月13日(金)
慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎514番教室

企画・司会:植村玄輝(立正大学/高知県立大学)
報告者:松井隆明(東京大学)、佐藤駿(東北大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2014年までの13年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.77冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第三弾として、今回は『フッセリアーナ』からフッサールの観念論的主張に関わる二つの巻を取り上げる。まずは松井が『超越論的観念論』と題された全集第36巻(2003年刊)について報告する。1908年から1921年までの超越論的観念論に関わるテクストを集成したこの巻は、「レアルな現実世界の存在はそれを経験する顕在的な意識なしにはありえない」というフッサールの観念論的主張が練り上げられる過程のドキュメントとしてきわめて重要である。とりわけ特筆に値するのは、この巻に収められたテクストでフッサールは現象学的還元という方法に(少なくとも明示的に)訴えずに観念論的主張を擁護しているという点だろう。この事実をどうやって受け止めるべきなのかという問題は、ディスカッションの時間にじっくりと検討したい。次に佐藤が、『論理学研究』の補巻として2002年に公刊された第20巻代一分冊に関して報告する。フッサールが1913年の夏に着手しはじめた『論理学研究』第六研究の改訂――この試みは結局頓挫する――のための草稿を集めた本巻は、「フッサールの新資料を読む」研究会第一回でも取り上げられた『論理学研究補巻』第二分冊における新たな記号論のきっかけとなる考察に加え、フッサールの超越論的観念論において重要な役割を果たす二つの可能性概念(「イデア的可能性」と「レアルな可能性・動機づけられた可能性」)に関する詳細な議論を含む。佐藤の報告は、とりわけこの論点に着目することになる。


タイムテーブル
15:00~15:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
15:10~15:50 報告1:松井隆明
15:50~16:30 報告2:佐藤駿
16:30~16:45 休憩
16:45~18:00 ディスカッション
# by husserl_studies | 2015-02-02 13:13 | フッサール研究会特別企画
加藤康郎「現象学的美学の可能性について」
美学という学問は、1750年にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン(1714-1762)がその著書『美学(Aesthetica)』を発表したときを以って始まるとされる。
その考え方は、「芸術の本領は美にあり、美は感性により認識される」というものであり、「芸術、美、感性の同心円的構造」を前提とするものであった。つまりそれは、その基盤が「感性」にあることからも、また著作のタイトルからもわかるとおり、まさに「感性学」として成立したのである。
しかし皮肉なことに、その後、このような学を取り巻く環境は大きく変化してゆく。つまり「美しくない芸術」が登場し、それどころか昨今では、「芸術」という概念さえ、曖昧でとらえどころのないものになってきている。
そしてこうした状況のなかで、これまで「美学」と呼ばれてきた学問にもさまざまな批判が寄せられ、根本的な反省を迫られるようになったのである。「芸術は美を目指す」という考え方は妥当であろうか、といったこともそうした批判や反省のひとつである。
この発表では、以上のような現状把握に立って、現象学的美学の可能性について、すなわち芸術作品が体現しようとしているものを「美」から「真」に、すなわち「真理」、「真実」に置き換えることの可能性について検討したいと考える。
発表では、斎藤慶典『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』を手がかりとして、まず美しくはない作品の例、それも極端なケースとして、技量を伴わず、色彩もない、二歳女児の絵を取り上げ、そのような作品がいささかでも人を感動させることがありうるとしたら、それはなぜなのかを明らかにする。
つぎに、そこで得た結果を『存在と時間』第44節の内容(ハイデガーの真理論)と比較しつつ、その「真理の輝きとしての美」という考え方が、演劇、および戯曲・小説などの文芸の芸術論において有効であることを説明する。事例として、日本の伝統的な演劇・文芸を取り上げるが、これは日本の伝統芸術の美学の中心を占める歌論すなわち和歌の美学に対して、演劇・文芸についての新たな美学の可能性を探るものでもある。
# by husserl_studies | 2015-02-02 13:05 | 研究発表要旨
石井雅巳「『全体性と無限』における享受論の実在論的読解ーレヴィナスはいかなる意味で現象学的か」
本発表の狙いは、国内における一連の現象学的実在論にかんする研究に依拠しつつ、レ ヴィナス『全体性と無限』(1961 年)第二部――いわゆる享受論――をある一つの現象学的 実在論の試みとして描き出すことである。とはいえ、レヴィナスは『全体性と無限』にお いて、現象学的実在論を展開したミュンヘン・ゲッチンゲン学派の面々に明示的に言及す ることはない。それゆえ、本発表は、思想史的な影響関係の解明というよりは、インガル デンらの議論を補助線に使いつつ、レヴィナスの記述をいかなる現象学的な態度として受 け取るかという事柄の理解を議論の争点とする。
レヴィナスが処女作『フッサール現象学の直観理論』(1930 年)から一貫してフッサール 現象学から恩恵を受けつつも、フッサールの観念論的−観想的立場に警鐘を鳴らすという両 義的な立場を取っていたことはよく知られているが、こうした立場は、フッサールの観念 論に対立し、実在論を現象学として肯定するインガルデンらと同じ方向を向いているもの と言える。本発表では、『全体性と無限』第二部における1フッサールに見出される表象 の優位についての批判、2身体性への着目によって可能になる、表象の次元から享受の次 元への転換、3享受による我々及びその知覚に対する条件づけ、4我々の生の内容であり、 享受の対象である糧とその実在(外在性)の肯定を可能にする元基(élément)といった論点 を取り上げ、レヴィナスによるフッサール批判の眼目を吟味した上で、享受の対象のもつ 実在性にかんする議論を現象学的記述として分析する。
レヴィナスの記述を現象学における観念論/実在論という枠組みで捉えることで、フッ サール現象学にとって本質的とも言える、構成や意味付与などを含めた志向性の議論を批 判しつつも、なぜレヴィナスは『全体性と無限』が「全面的に現象学的な方法に負ってい る」と述べることが出来るのか、というこれまでレヴィナス研究者たちを悩ませてきた問 いに一定の回答を与えることができるだろう。本発表は、上記の仕方でレヴィナスの記述 を正当化し、享受論そのものの理解を一歩先へと進めたい。
フッサールの観念論に対立し、身体性に着目しつつ実在を肯定する点で、レヴィナスと インガルデンは共闘関係にあると言えるが、両者の間に大きな隔たりがあることも事実で ある。本発表ではこの点にも触れ、ミュンヘン・ゲッチンゲン学派とは別の仕方で、現象 学的実在論を探求することも試みる。
# by husserl_studies | 2015-02-02 13:04 | 研究発表要旨