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栁川耕平 「フッサール初期時間論から中期時間論への予持概念の変化」
本発表では、フッサールの初期時間論*における予持概念と彼の中期時間論における予持 概念を比較し、それらの間に違いがあることを示す。

予持に関する先行研究としては、たとえばD.ローマーの、「フッサールのベルナウ草稿に つながる予持の分析――予持は何を“予持”するのか?」**を挙げることができる。この論文 の中でローマーは主に『ベルナウ草稿』(以下『ベルナウ』と省略)を扱い、また必要に 応じて『内的時間意識の現象学』(以下『時間意識』と省略)を扱いながら、予持概念の 考察を行っている。彼は「予持は内容的には何を予持しているのか」(196頁)という問い を立て、その答えとしてヒュレー的与件に向かう予持(彼はこれをH予持と呼んでいる)と、 把持に向かう予持(これはR予持と呼ばれている)という二種類の予持を示し、さらにH予 持については更なる解明が必要になることを予告している。この研究は確かに『ベルナウ』 の内容を正しく述べており、また彼の考察自体も示唆に富んだものなのだが、しかしこの 研究は二つの点で不満の残るものであると言わざるを得ない。第一に、『時間意識』の予 持概念を参照してはいるものの、それと『ベルナウ』における予持概念とを比較していな い。また第二に、ローマーが『時間意識』から引用した箇所はいずれも1917年に書かれた ものであり、それ以前の箇所において予持がどのように描かれているかを考察していない。

確かに『ベルナウ』における予持の記述に比べれば、『時間意識』をはじめとした初期 時間論における予持の記述は、粗末なものと言わざるを得ない。しかしそのことは、初期 時間論における予持の記述は無視しても構わない、ということにはつながらない。初期時 間論にも予持についての記述がある以上、それらについても考察しておくべきであろう。

そこで本発表では、初期時間論における予持概念と『ベルナウ』の予持概念との比較を 行い、両者が異なることを示す。考察の手順としては、まず全集X巻のNr. 45を解釈するこ とで初期時間論におけるProtentionの特徴を吟味し(第一節)、それが初期時間論の他の箇 所にも当てはまることを示し(第二節)、その特徴について吟味する(第三節)。そして 『ベルナウ』における予持概念を考察し(第四節)、これを初期時間論の予持概念と比較 する(第五節)。

* 本発表におけるフッサール時間論の時代区分はXXXIII巻のR. ベルネとD. ローマーの連 名によるEinleitungの見解に依っている。このEinleitungにおいては1905-1911年の期間が初期 時間論に振り分けられ、1917-1918年の『ベルナウ草稿』(以下『ベルナウ』と表記)が中期 時間論の中心テクストとして考えられている。ゆえに本発表では、便宜的に、1917年以降 は中期と見做し、1916年以前は初期と見做す。

**D.ローマー、「フッサールのベルナウ草稿につながる予持の分析――予持は何を“予持” するのか?」、『フッサール研究』所収、第二号、浜渦辰二訳、2004年、191‐206頁。 谷徹、『意識の自然』、勁草書房、1998年。
# by husserl_studies | 2016-01-21 19:55 | 研究発表要旨
フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(5):『ベルナウ草稿』と『C草稿』」
日時:2016年3月10日(木)、16:00-19:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 末川記念会館 第三会議室
http://www.ritsumei.ac.jp/campusmap/kinugasa/


報告者:村田憲郎(東海大学)、吉田聡(千葉工業大学)
企画・司会:植村玄輝(立正大学/高知県立大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2015年までの14年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.71冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第五弾として、今回は『フッセリアーナ』第33巻『時間意識についてのベルナウ草稿(1917/18)』(2001年刊)と『フッセリアーナ資料集』第8巻『時間意識についての後期草稿(1929-1934):C草稿』(2006年刊)を取り上げる。『イデーンI』(1913年刊)において時間意識を現象学にとって避けることのできない最重要問題とみなしつつも、生前のフッサールは、この問題への取り組みの成果として、1904/05年の『時間講義』(1928年刊)だけを発表した。したがってフッサールの時間論を論じる場合、他の主題に比べてよりいっそう、草稿に依拠することが必要になる。ところが、『フッセリアーナ』第10巻(1966年刊)の附論として採録された初期の草稿群を除いては、時間意識に関連するフッサールの草稿は、今回取り上げる二つの巻が刊行されるまで断片的なかたちでしか公にされてこなかった。

もちろん、『C草稿』に採録されたテクストについても、フッサール文庫に保管された草稿およびそのトランスクリプトを用いた研究がそれ以前からなされており、その内容はフッサール研究者に知られていないわけではなかった。しかし、『ベルナウ草稿』に収められた草稿については、それらが1969年になってはじめてフィンクからルーヴァンのフッサール文庫に譲渡されたというやや特殊な事情がある(cf. Hua XXXIII, xxv)。これが意味するのは、フッサール後期の時間論に関する研究も、ある時代までは、中期の時間論へとアクセスできない状態でなされたということだ。(ブラントの『世界・自我・時間』およびヘルトの『生き生きした現在』という後期時間論に関する古典的な研究書がそれぞれ1955年と1966年に刊行されたという事実を、ここで指摘しておくべきだろう。)

こうした点を踏まえ、本企画では、遅れてきた者の特権を最大限に行使し、資料上の制約が劇的に少なくなった現在の観点から、フッサールの中期以降の時間論に迫りたい。『ベルナウ草稿』を村田が、『C草稿』を吉田がそれぞれ担当する。

タイムテーブル
16:00~16:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
16:10~16:50 報告1:村田憲郎『ベルナウ草稿』
16:50~17:30 報告2:吉田聡『C草稿』
17:30~17:45 休憩
17:45~19:00 ディスカッション
# by husserl_studies | 2016-01-21 19:53 | フッサール研究会特別企画
第14回フッサール研究会発表追加募集のお知らせ
先日お知らせした第14回フッサール研究会(立命館大学衣笠キャンパス、2016年3月11-12日)の個人研究発表枠にまだ若干の余裕がございます。
つきましては、以下の要領で追加募集を行います。

・応募は先着順で受け付け、定員に達した時点で募集を打ち切らせていただきます。
・最終〆切は2016年1月10日(日)です。

発表ご希望の方は、下記の(1)~(4)を、フッサール研究会連絡係・松井(husserlkenkyukai[アットマーク]gmail.com)までご送付ください。

【個人研究発表】
(1)氏名
(2)所属(無所属も可)
(3)連絡先(メールアドレス、住所、電話あるいはファックスの番号など)
(4)論題と発表要旨(800~1000字程度)
# by husserl_studies | 2015-12-22 10:08 | フッサール研究会
第14回フッサール研究会のお知らせ(兼 発表募集)
第14回フッサール研究会は、2016年3月11日(金)と12日(土)に、立命館大学衣笠キャンパスにて開催されることになりました。

つきましては、シンポジウムのテーマ・プラン、および、個人研究発表の募集を行います。
以下の要項をご覧の上、ご応募、ご提案をお願いいたします。
特にシンポジウムに関しては、皆様の斬新なアイディア、ご希望をお待ちしております。

-------------募集要項ここから----------------

【シンポジウムのテーマ・プランの募集】

★締め切り: 2015年11月15日(日)

★宛先: フッサール研究会連絡係・松井(husserlkenkyukai[アットマーク]gmail.com)

★応募要領: 上記宛先まで、次の三点をお知らせください。

(1) テーマ・タイトル
(2) パネリスト・司会者の候補(可能であれば、適任と思われる方のお名前を挙げてください)
(3) その他(シンポジウムの内容に関する具体的アイディアなど)

ご提案は(1)のアイディアのみでも構いません。また、(3)について詳しい内容をお示しいただける場合は、800〜1000字程度の概要を添えてください。
皆様のご提案をもとに、企画実行委員会での審議の上で最終的に決定とさせていただきます。
その際、ご提案の一部のみを採用すること、また、応募多数の場合には採用を見送ることもありますので、あらかじめご了承ください。


【個人研究発表の募集】

★締め切り: 2015年12月10日(木)

★宛先: フッサール研究会連絡係・松井(husserlkenkyukai[アットマーク]gmail.com)

★応募要領: 上記宛先まで、次の四点をお知らせください。

(1) 氏名
(2) 所属(無所属も可)
(3) 連絡先(メールアドレス、住所、電話あるいはファックスの番号など)
(4) 論題と発表要旨(800〜1000字程度)

なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨とこれまでのご発表実績等に基づいて、発表者を調整させていただきます。あらかじめお含みおきください。

------------募集要項ここまで--------------

シンポジウム企画と個人発表の応募締め切りが異なっておりますので、ご応募の際はご注意ください。

本メールは転送自由です。皆様のお近くに興味のありそうな方がいらっしゃいましたら、お声かけしていただけますと幸いです。
多くの皆様からのご応募をお待ちしております。

2015年10月13日
フッサール研究会企画実行委員会一同
# by husserl_studies | 2015-10-13 22:03 | フッサール研究会
フッサール研究会特別企画「田口茂『現象学という思考』合評会」
2015年12月19日(土曜日)、14時-18時
東海大学高輪キャンパス(4号館2階 4201教室


企画・司会:*植村玄輝(立正大学/高知県立大学)、八重樫徹(東京大学)
提題者:田口茂(北海道大学)、納富信留(慶應義塾大学)、山田圭一(千葉大学)、佐藤駿(東北大学)

開催趣旨
田口茂氏の『現象学という思考:〈自明なもの〉の知へ』(筑摩書房、2014年)は、フッサールを手掛かりとしながらも、ときに大胆にそこから離れつつ、著者自身の手によって(少なくとも広いいみで)フッサール的な現象学を実践してみせる、意欲的かつ異色の——といって差し支えないだろう——著作だ。不意打ちの生活世界論にはじまり、「物」・「本質」・「類型」・「自我」・「変様」・「間主観性」というさまざまなトピックを順番に論じる本書は、あるひとつのアイディアによって貫かれているように見える。それは、日常的な経験を私たちにとってあたりまえの(田口氏がより多用する言い方をすれば、「自明な」)ものにしているのは、そうした経験のうちで非主題的に流動する現れの運動であり、そこで生じている媒介という現象であるというアイディアだ。これによって驚くべき有機的なつながりを各章のあいだに生み出すことに成功した本書は、まさにそのような特徴ゆえに、入門書としても通用する丁寧さを一方で備えながらも、一筋縄ではいかない濃密な論考となっている。これをフッサール研究会の特別企画で取り上げない理由はない。そこで今回は、古代哲学と現代哲学の専門家として納富信留氏と山田圭一氏をお招きし、本書について、それぞれの観点から論評を行っていただくことにしたい。また、フッサールおよび現象学の研究者を代表して、佐藤駿氏にも論評に加わっていただく(ただしその際、「フッサールとの違いを指摘しても、本書の不備を指摘したことにはならない」(26–27頁)という著者の考えは最大限尊重される)。

プログラム
14:00-14:10 イントロダクション
14:10-14:25 田口茂「自著紹介」
14:25-14:55 佐藤駿「流れと媒介」
14:55-15:25 山田圭一
15:25:14-55 納富信留
15:55-16:10 休憩
16:10-16:40 著者の応答
16:40-18:00 全体討論

提題要旨

佐藤駿「流れと媒介」

平易で読みやすい文章、卓抜な表現と比喩、一歩踏み込んだ独自の解釈ーー田口の著書『現象学という思考』(筑摩書房、2015 年)は、現象学(とりわけフッサールのそれ)を研究し、それについて伝えるべきことがあるような人間にとっては、心地好い嫉妬を覚えるような美点をいくつも具えている。「本書が提示しているのは、最終的には、筆者が考える現象学であり、それをスタンダードなものと考えるのは危険である」(26 頁)と断りこそすれ、本書によって提示されている読みと理解が、フッサールの思考に付き添い、ともに真剣に考えた末にのみ展開できる現象学の姿であるということは、フッサールを知る者の眼には明らかだろう。もちろん、その射程は決してフッサール現象学の理解のみに留まるものでないことは付け加えるまでもない。

その本書で用いられるキーワードのひとつが「媒介」である。この語によって示唆されている視点は、そのオリジナリティと含蓄のゆえに読み手にとって少しく困惑を覚えさせる可能性がある(私だけかもしれないということは否定できないが)。そこで本提題では、特に本質と間主観性の論述に関して「媒介」という概念の内容を問い、議論の手がかりとしてみたい。 例えば、田口は本質について二通りの言い方をしている(ように見える)。一方では、諸現象の連合的な無際限の結びつきの媒介者となっているような点のことをフッサールは「本質」と呼んだと書き、また同時に、多様な契機の間の結びつきの現象、媒介の現象そのものを「本質」と呼んでも不適切とは言えないだろうと書いている(120 頁)。このような二つの言い方で本質が語られるとき、その内実は同じものだろうか、それとも異なるのだろうか。このような問いが浮かんでくるのは、媒介という概念の射程と意味内実を私自身があまり理解できていないからだろう。そこでさらに、間主観性について論じられた第七章を参照しながら問いをいくつか重ねよう。田口はフッサール現象学ではお馴染の「感情移入」という言葉を避け、身体の「響き合い」について語り出 す。これはフッサールが「対化」と呼んだものでもあり、媒介であり、また変様でもある、と。そうなれば当然、ここで媒介という概念が、本質がそうであると言われた媒介とどのような点で同じか,あるいはどのような点で異なるのかが問題となろう。さらに、田口はいくつかの箇所で、「媒介」というこの語をある現象を指すのにも、また媒介されるはずの当のものを表わすのにも用いているように思われる(例えば、「逆に言えば、『一つの身体』というものは、そもそも響き合いのための『媒介』としてのみ、その存立を確保しているのである」(236 頁)、あるいは「身体は『転換点』として、媒介そのものとしてある」(238頁)など)。これはどのように理解すべきか。そして、媒介はここでは身体の響き合いであり、また変様でもあるということから、私の身体と、私のとも他者のとも言えない無記名の身体との関係への問いも、この関連で生じるだろう。この無記名の言わば「原身体」は、媒介という現象のうちにどのように位置づけられるべきか。

以上のような問いかけを通して、「現象学という思考」が私に見せてくれた風景をより鮮明にすることがで きればと思っている。

山田圭一

私は現在ウィトゲンシュタインが考えていた<熟知している対象に安らっている場面とその安らぎが破れる場面の違い>をどのような仕方で言語化していくかを悪戦苦闘しながら考えているところであるが、本著ではその区別について「類型化」という概念を用いて鮮やかな描写と分析が為されており、この点に関して多くの部分で共感を覚えるとともに、教えられるところが大きかった。さらに、知覚と思考の関係、個別的なものの知覚と抽象的なものの知覚についても現在いろいろと考えているところで、その点に関しても多くの刺激的な議論と考察のための示唆とアイデアを与えていただいた。しかも、それがこれだけ平易で日常的な語り口で述べられているという事実に感嘆せざるをなかった(余談だが、千葉大に一般の方々が読書会を行っている哲学サークルがあるのだが、なかなか現象学の理解が進まないということだったので本著を推薦してみたら、これならわれわれにも分かる、と大変喜ばれた)。

ただ、共感しているだけではあまり生産的な議論にならないし、せっかくの機会をいただいたので、提題では主に言語哲学的な観点から、以下の論点について私が感じたいくつかの疑問を提示してみたい。

1. 類型化の規範性について(本質直観と言語との関係)。
2. われわれは本当に「類型しか見ていない」のか。
3. 原事実の「原」性と超越論的主観性の関係について。
4. 「私」はどこに出てくるのか。

納富信留

田口茂氏の著書は、従来特有の術語が多用されてきた現象学において、それらの特殊な語り口を極力避けながら、私たちが生きる経験の現場を明らかにすることに集中している。この叙述は哲学としての現象学の開かれたあり方を示し、大きな成功を収めていると感じる。だが、それは哲学としてどこまで成功しているのか。田口氏が明瞭に示す現象学の思考様式は、例えば古代ギリシア哲学と対照させることで特徴が際立つ。そこで一見当然のように用いられる言葉が、強固な前提として思考を制約している可能性はないか。このような問題意識からいくつかのキーワードを検討することで、本書に別の光を当ててみたい。それらは「流れ」「意識」「豊かさ」である。

田口氏は私たちの生や経験を「流れる」という表現でくり返し描き出している。「流れ」とは比喩であるとして、一体どういう意味なのか? その装置は多面的で、考察の全体を導く手がかりとなっている。経験が「流れている」として、それは理論上の仮設なのか、観察される事実なのか、方法的なモデルなのか? ここでの考察の多くは「たえず流れている」という経験の特徴づけを外すと、機能しなくなるように見える。それは、すべてを「流れ」として捉える存在論(ヘラクレイトス、ベルクソンなど)と同じか。この点をまず検討したい。

また、本書では「意識」という言葉がさまざまな場面で登場する。近代哲学では当然に用いられるこの概念は、古代ギリシアには基本的に存在しない。私たちが自明だと思い、幅広く用いているこの「意識、意識的、意識化」といった表現は、信頼できるものなのか。それは一体何を意味しているのか?

最後に、田口氏は時折、現象学の思考が明るみにもたらす現象と経験の「豊かさ」に触れる。「豊か」とはどういう意味か? 私たちの生において隠れている経験世界はより豊かなのか。もしそうだとしたら、現象学という哲学の遂行は、私たちの生をより豊かにしてくれるはずである。だが、例えばプラトンの哲学は、感覚する経験を越えた本質の直観により豊かな生の地平を求める。それを覆す現象学は、果たして十分に私たちを説得してくれるのか?

 これらの言葉による考察が暗黙に依拠する前提や期待を再検討しながら、さらに疑問を深めてみたい。

# by husserl_studies | 2015-10-01 18:40 | フッサール研究会特別企画