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フッサール研究会 シンポジウムのレジュメをアップしました。
村田さんと吉川さんのシンポジウム提題のレジュメをアップしました。
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# by husserl_studies | 2006-03-13 06:42
シンポジウム 吉川 孝 レジュメ
感情のロゴス、理性のパトス
――フッサールによる定言命法の現象学的解釈をめぐって――
                                    

 フッサールの倫理思想は、「感情道徳」と「悟性道徳」とによる論争において、双方の立場が見落としていた「感情の合理性」を見いだすことをその特徴としている。意志や評価の作用が認識や判断と同じような合理性をもっていることを明らかにすることは、フッサールの倫理思想の一貫したモチーフであったと言えよう。とはいえ、その倫理学は、ゲッティンゲン時代(1901-1916年)からフライブルク時代(1916-1928年)へと異なった相貌を見せており、この変化はフッサール現象学そのものの変化としても興味深い意味をもっている。フッサールによる「定言命法」の現象学的解釈を明らかにすることは、感情の合理性の意味やその思索の変化を知る手がかりとなるだろう。
 ゲッティンゲン時代に理解された「定言命法」は、ブレンターノの発想を受け継いだ「形式的価値論」「形式的実践論」の枠組みのなかで、「一貫性の法則」や「価値の吸収法則」との関連においてとりあげられている。「あまり価値がないもの」は「より価値のあるもの」へと「吸収」されるが、もはや他の何ものによっても吸収されることのない価値が「それ自体における価値(内在的価値)」である。「最善を為せ!」という定言命法は、こうした価値吸収の法則から学的に基礎づけられうると考えられていた。形式的価値論・実践論は、カントの形式主義的倫理学を学問的に根拠づけたものにほかならなかった。
 しかし、こうした論理学との類比の発想から生じた形式的実践学や価値論は、定言命法が要求する意志そのものの善さ(倫理性)を検討するのに十分な方法であるとは言いがたい。フライブルク時代のフッサールは、『イデーンⅡ』で展開された「精神の存在論」を踏まえて、「生の評価」という問題から倫理学を展開しており、そこでは、価値の比較が人格の生の満足との関連において考察されるようになる。絶対的価値というのは、人格が最も満足できる価値であり、絶対的価値が無条件的な当為として迫ってくるとき、人格はこの価値に向けて「犠牲」や「献身」を行うことになる。価値比較において価値は吸収されるというよりも犠牲にされるのであるが、ここで機能する志向性は、比較考量する知的な価値評価(悟性)ではなく、情感的契機をともなった志向性(愛や憧れ)とみなされている。
フライブルク時代の定言命法は、無限の理想という絶対的価値への献身を要求するものとなっており、そこに献身することが人格個人の浄福を意味するような「召還・職業(Beruf)」を指し示すものとなっている。
# by husserl_studies | 2006-03-10 06:39
シンポジウム 村田憲郎 レジュメ
自由のメディアとしての身体
 ―― カント、ベルクソンからフッサールへ




消極的な「…からの自由」ではなく積極的な「…への自由」であり、知性的でありながら概念的・抽象的ではなく、感性的でありながら衝動的・盲目的ではないような自由のあり方はいかにして可能か。「フッサールと実践理性」というテーマにちなんで、本発表では、哲学史、とりわけカントとベルクソンの力を借りながら、フッサールにおける自由と身体との関係を、こうした問いを導きの糸として考察してみたい。
自由の問題は、自然的な諸事象のもとでの原因と結果との必然的な継起、つまり因果性との対比において考えられてきた。ごくごく大雑把に言って、フッサールにおける「因果性」と「動機づけ」という対概念は、カントにおける自然因果性と自由因果性という対概念の類比物として捉えることができるだろう。しかしカントにおいては、自由が有限な人間存在においては直観不可能なものにとどまっており、それゆえ自由は直接的には意識されず、叡知的な道徳法則を介して間接的に示されるものにとどまっている。
これに対してベルクソンは、純粋持続という概念をもちこむことによって、自由を単に要請されるものではなく、直観において見出される、いわば現にそこにある具体的な事実ないし事態として捉えなおしながら、かつ、自然的因果性の必然的な連関から解放することができた。つまりベルクソンは、物理的・機械論的因果性の決定性に従わない実在としての純粋持続を、「意識に直接的に与えられたもの」のうちに認めることによって、自由を単なる概念ではなく、程度の差はあれ具体的に見出されうるような、非決定性の領域として確保したのである。とはいえ、この領域がもっぱら意識の領域として確保されてしまうと、自らの内面に引きこもることが自由であるかのような印象を与えてしまう。そこで重要な契機となってくるのが、身体である。実際『意識に直接与えられたものについての試論』に続く『物質と記憶』においては、私たちの行動の道具としての身体の分析に多くの紙面が割かれている。そこでは、身体は知覚イマージュの一つとして他の物質との相互的な影響関係のうちにありながら、私たちが内側から感知することのできる唯一の知覚イマージュである。つまり、身体は自然界の因果的・機械論的な連関に対して、行動に有用な面だけを取り出して、非決定性としての意識の領野へともたらす媒体物、メディアなのである。
本発表では、カントとベルクソンをこのように対比させた上で、ベルクソンの議論に引きつけて、フッサールの身体論を捉えなおしてみたい。身体は、因果性を動機づけに、動機づけを因果性に変換する「変換点Umschlagstelle」である。自然的な因果性は、私たちが生活する実践的領域に、身体を媒介として意味的な「条件性(Konditionalität)」として入ってきて、動機づけの連関の諸契機をなす。しかしまた、動機づけには精神的な諸作用の所産としての理念もまた参与しており、こうした諸契機が混ざり合って自由の領域としての人間的な環境世界を形成しているのである。
最後に、時間論的見地から、フッサールにおける物理的世界と精神的な環境世界との関係を捉えなおす。物理的世界は精神的な環境世界に対して、その土台をなし、「基づける」関係にあるが、この「基づけ」において付け加わっていくのは、身体的行動と時間意識の所産である「習慣性」であるという解釈を試みてみたい。
# by husserl_studies | 2006-03-10 06:38
バックナンバー
遅れて申し訳ございません。『フッサール研究』バックナンバーは3月上旬にアップロード予定です。
# by husserl_studies | 2006-03-02 08:35 | 『フッサール研究』
(5) 福光瑞江
フッサールの物質的本性に関する現象学 ―『イデーンII』を中心にして―

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# by husserl_studies | 2006-01-04 23:23 | 研究発表要旨