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玉置知彦、「現象學と唯識論 ― 時間について―」
唯識論を現象學の觀點から解明することが最も效力を發揮するのは時間に關してである。それは現象學的還元と云ふ方法が兩者に共通してをり、しかもその方法が時間に關して徹底した形で適用されてゐるからである。
『成唯識論』では、現在すなはち「刹那」のみが有り、「去來生は、(中略)應に空華の如く、實有性に非ざるべし」とされてゐる。つまり過去や未來は存在するものとして扱はれるのではなく、現象學的還元により「空華の如く」とされ、「實有」の性格は「非ざるべし」として停止される。
このやうにして「刹那」としての現在は次のやうに記述される。「初に有るをば生と名け、後に無からむをば滅と名け、生じ已つて相似て相續するをば住と名け、即ち此の相續が轉變するをば異と名く」。 謂はゆる「生住異滅」である。刹那の現在は「生」じ且つ「滅」するのであるが、それは「住」と「異」と云ふ契機で成立してゐる。この二つの契機で何が意味されてゐるのかは、「刹那」に相當する現象學の「生き生きした現在」を參照することで解明することが出來る。
「生住異滅」と云ふ形で記述された「刹那」は、「徹底した還元」が試みられてをり、時間が生じてくることに迫る記述である、或いは先時間である。從つて、「住」や「異」と云ふ表現は、時間の中に現はれるものの記述と見做されてはならない。自然的態度のままで『成唯識論』を讀んでも理解できな所以である。
「轉識の波浪を生じ、恒に無間斷なること、猶し瀑流の如し」との表現は、阿頼耶識のことであり、「我」が現はれる以前の先時間が述べられてゐる。現象學の「流れること」も同じくそこから「自我」が發生して來る先時間である。「生」や「滅」はもちろん「生き生きした現在」の記述であるが、「自我」の發生といふ觀點から見ることができ、その場合には「生」と「滅」は、「生」と「死」を徹底的に還元したものと讀むことが出來る。「生老病死」とは客觀時間の記述であり「我」に對して生じる出來事の記述であるが、これを徹底的に還元すれば「生住異滅」となり、「我」や「器世間(環境)」が發生する根源に遡つてゐると看做すことが出來る。
以上「徹底した還元」と云ふ觀點から唯識論の「刹那」が理解できることを述べた。本發表では時間の基本概念である現在の「三項構造(予持、原印象、把持)」や、「横の志向性」や「縱の志向性」の考へ方を用ひて、更に具體的に唯識論の時間を理解することを試みる。
以上
by husserl_studies | 2007-12-19 09:27
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