自己責任と明証の公共性(要旨)
1960年代以降、フッサール現象学は悪しき主観哲学の二十世紀における残滓として見られ、分析哲学や解釈学、あるいはコミュニケーションに依拠した社会理論の側から、繰り返し批判を浴びてきた。こうした批判に対して、フッサールの相互主観性論を徹底もしくは改良することによって応答する試みが繰り返しなされてきたが、彼の論自体が試行錯誤の痕跡という性格を抜けきらないものだということもあり、不本意なレッテルを完全に払拭するまでには到っていない。筆者の見るところでは、こうした試みは、フッサールの明証概念を再検討することなしには十分な成果を得ることができない。なぜなら、多くの批判者はフッサールの明証概念をあまりにも狭い意味で受け取り、発話の妥当性が究極的には個人の認識体験においてしか確証されえないと考える立場として現象学を見なしているのだが、まさにここに根本的な行き違いがあるからである。本発表では、数多い批判者の中で、特にハーバーマスを取り上げる。彼は自身のコミュニケーション行為の理論を練り上げる際の叩き台の一つとしてフッサールを選び、有意義な批判を展開している。彼の批判に応答することは、フッサール現象学における言語とコミュニケーションの位置づけ、さらにはそれらと明証との関係を改めて考え直す上で有益である。 本発表ではまず、フッサールにおいて明証および理性の概念が、認識の領分に限定されるものではないことを示す。『イデーンⅠ』におけるドクサ的なものの優位は、理性の多元性を損なうものではなく、むしろそれを要求するものである(1)。続いて、明証がプライベートな体験に限定されたものではなく、本質的に表現可能なものであり、またそうでなければならないことを示す。真理や明証が問題化されるのは言語的に表現可能なものの水準においてだというのが、フッサールの一貫した立場である(2)。さらに、1920年代以降のフッサールにとって重要な役割を演じる「自己責任」の概念を、明証概念と結び付けながら論じる。その際、自己責任が決して個人的に担われたり果たされたりしうるものではなく、ある社会性を帯びたものであることを明らかにする(3)。最後に、矮小化を免れたフッサール現象学が、コミュニケーション行為に依拠する社会理論に対してどのような優位を占めるかを考察する。ここでハーバーマスの批判に対する最終的な応答がなされることになる(4)。
by husserl_studies
| 2006-01-04 23:17
| 研究発表要旨
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フッサール研究会
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