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綿引周 「超越論的現象学は超越的認識の「謎」を解きうるのか」
1930 年に公開された「イデーンへのあとがき」では、『イデーン』第一巻の第二編で現象学的還元を動機づけていたのは「客観的認識の可能性の問題」であったとはっきりと書 かれている(V, 150)。その編の第二章で叙述されていたのは、この問題から超越論的現象学にとって本質的な諸々の洞察を得るための、後年「デカルトの道」と呼ばれることになるある一つの道であった。確かにフッサールはこの「デカルトの道」を満足のいくものと考えていたわけではない。しかし『論理学研究』の記述心理学的認識論では飽き足らず、 そこからフッサールを「超越論的」な現象学へと向かわせたそもそもの動機が認識論的な問題関心のうえにあったことは確かである。そうだとすれば「客観的認識の可能性の問題」 は、超越論的現象学を推し進めることで解かれるはずではないだろうか。

しかしソコロウスキーは「フッサールは超越のこの謎を解くあるいは解決すると主張しているわけではない」という。「実在性が直接、主観性によって構成される、すなわち実在性はその意味を主観性から受け取ると言った後でさえ、フッサールはその謎を蒸発させてしまったわけではない。実在性、すなわち意識に超越した何かがまさにその超越性において、意識にとってアクセス可能であるというパラドクスは残り続ける」(Robert Sokolowski, The Formation of Husserl’s Concept of Constitution, Ch. IV, pp. 134-5)。

1907年夏学期の『現象学の理念』講義では、客観の認識の理解しがたさというのは、認識がそれを「超越」したものに「的中」すると称されている点にあると述べられている。 認識のこの超越性を理解し損ねた(あるいは誤解した)ために、伝統的な認識論は独我論や懐疑論に陥ったのだが、本当にフッサールは、ソコロウスキーのいうように、この謎を謎のまま残しておいたのだろうか。

本発表ではソコロウスキーの見解に反し、フッサールは超越的認識の謎にある解決を用意していたことを示す。そのためにまず「超越的認識の謎」が何を意味しており、その解決とはどのようなものであるのかを明らかにする。そしてその謎を解くためにこそ、現象学的還元が方法原理として求められ、フッサールは「構成の問題」圏へと導かれたと論じる。だが超越的認識の謎を解くことが(フッサールのいう)「自然主義」にコミットする限り不可能である一方で、「構成分析」によってその謎が解かれうると考えるなら、超越論的現象学は何らかの反自然主義的な存在論ないし(狭義の)形而上学へのコミットメン トを前提ないし含意するはずである。本発表の残りの部分は「構成分析」という現象学の課題設定のもつ存在論的・形而上学的含意を引き出すことにあてられる。
by husserl_studies | 2016-01-21 20:02 | 研究発表要旨
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