フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(2)」
フッサールの新資料を読む(2):『一般的認識論(1902/03)』と『倫理学入門(1920/24)』

日時: 2014年11月28日(金)
会場: 慶應義塾大学三田キャンパス472教室
http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html

企画・司会:植村玄輝(立正大学/高知県立大学)
報告: 植村玄輝
    八重樫徹(成城大学/東京大学)


開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2013年までの12年間では、『フッセリアーナ』として13冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.83冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第二弾として、今回はフッサールの初期と後期の講義録を一つずつ取り上げる。今回はまず、植村が『フッセリアーナ資料集』第3巻『一般的認識論』(2001年)について報告を行う。1903年夏学期講義「一般的認識論」全体と、1898/99年冬学期「形而上学と、認識論の主要点」冒頭の抜粋からなるこの巻は、次の二点から注目に値する。第一に、これら二つの講義(とりわけ前者)は、大著『論理学研究』(1900/01年)の内容を概観するための格好の素材を提供している。第二に、これらの講義では、同書においてははっきりと語られなかった狙い(とりわけフッサールのプロジェクトにおける形而上学の位置づけ)や、同書の次の一歩に向けた試行錯誤の痕跡(たとえば、現象学と記述的心理学の関係)を見てとることができる。次に八重樫が、『フッセリアーナ』の第37巻『倫理学入門(1920/24)』(2004年)について報告を行う。この講義については、近年ますます注目を集めるフッサール倫理学に関するドキュメントとして注目している研究者も多いことだろう。八重樫の報告は、(1)この講義がなされたフライブルク時代のフッサール倫理学とゲッチンゲン時代のそれとの共通点・相違、(2)同講義においてフッサールが過去の倫理学説(とりわけ、スミス、ハチスン、シャフツベリーらに代表される、英国の道徳感情論)とどのように対決したのかという二点にとりわけ注目してなされる。なお、二つの巻の内容の隔たりを考慮して、今回はディスカッションの時間を報告ごとにわけて設けることにした。


タイムテーブル
17:00~17:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
17:10~17:50 報告1:植村玄輝(『一般的認識論(1903)』)
17:50~18:30 ディスカッション
18:30~18:40 休憩
18:40~19:20 報告2:八重樫徹(『倫理学入門(1920/24)』)
19:20~20:00 ディスカッション

問い合わせ 植村玄輝 uemura.genki#gmail.com (#を@に変える)
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# by husserl_studies | 2014-09-08 10:02 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画 鈴木俊洋『数学の現象学』合評会
フッサール研究会特別企画
鈴木俊洋『数学の現象学』合評会

日時: 2014年8月7日(木曜日)14:00-18:00
会場: 東海大学高輪キャンパス 4号館1階 4101教室(四号館の一階)
http://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/takanawa/


企画: 秋葉剛史(成城大学非常勤講師)・植村玄輝(成城大学非常勤講師)
司会: 秋葉剛史
提題者: 鈴木俊洋(上智大学)、稲岡大志(神戸大学)、秋吉亮太(JSPS/京都大学)、富山豊(JSPS/北海道大学)


開催趣旨
最初期の論文・著作のタイトルの変遷――「変分法への寄与」(1883年)から「数の概念について」(1887年)・『算術の哲学』(1891年)へ――を眺めるだけでも分かるように、フッサールの哲学者としてのキャリアは、数学から数学の哲学へと関心を移すことではじまった。また、数学をめぐる哲学的問題にフッサールが生涯を通じて関心をもっていたことは、現象学の創始者としての名声を築くことになるその後の著作からも窺い知ることができる。これらのことは比較的よく知られているものの、フッサールの数学の哲学に関する日本語の本格的かつ包括的なモノグラフは、本合評会で取り上げる鈴木俊洋氏の『数学の現象学:数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学』(法政大学出版局)が2013年に公刊されるまでは存在しなかったといってよい。日本のフッサール研究にとって、同書の登場は歓迎すべき事件である。
だが、『数学の現象学』は先行研究が手薄な方面を単に補うだけの手堅い本ではない。フッサールに依拠しつつもそれを超えて独自の現象学的枠組みを作り出す試み――たとえば、「近位項」と「遠位項」という概念の導入による志向性理論の一般化――という側面を備え、さらには技術の哲学への接続を見据えた同書は、フッサール研究者のみならず、数学の哲学や現象学のさらなる展開可能性といった問題に関心を持つ人に対しても大きなアピールを持つに違いない野心的な著作である。
そこで今回の合評会では、数学の哲学を研究領域とする稲岡大志・秋吉亮太の両氏を評者としてお招きして、『数学の現象学』が彼らの目にはどのように映り、そこで彼らが何を考えたのかについて提題していただく。もちろん同書のフッサール研究・現象学研究書としての側面についても、もう一人の評者である富山豊氏に存分に語っていただくことになる。以上三つの提題に著者の鈴木氏による自著紹介と応答が付け加わることによって、『数学の現象学』の魅力と数学の現象学の今後の課題が浮かび上がるだろう。

プログラム
イントロダクション(10分)
鈴木俊洋「自著紹介」(20分)
三人の評者による発表(それぞれ最大30分:順番は追って発表します)
休憩(15分)
著者の応答(45分)
全体討論(60分)
(合計で最大四時間)
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# by husserl_studies | 2014-05-12 17:30 | フッサール研究会特別企画
『フッサール研究』第11号
特集「志向性の哲学と現象学」
村田純一 「世界内存在としての意識:志向性の哲学と現象学

富山豊 「受容性と志向性:志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか


研究論文
村田憲郎 「「実在概念」としての範疇――ブレンターノ『存在者の多義性』に見る存在論

鈴木崇志 「フッサール『論理学研究』における「独白」概念の検討


フッサール研究第11号 2014年3月 目次(PDF版)

★★
論文の著作権は各著者に属する。また無断転載を禁じる。

凡例
本誌におけるフッサールの引用・参照は、基本的に『フッサール全集』(Husserliana)
にもとづく。『全集』の巻数とページ数は、それぞれ大文字ローマ数字、アラビア数
字で示される。(ただし、編者による序文の引用・参照の際には、小文字ローマ数字
が用いられる。)なお、Husserliana Materialien からの引用にあたっては、巻数の前に
「Mat.」という略号が添えられる。
編集:佐藤駿
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# by husserl_studies | 2014-03-09 09:19 | 『フッサール研究』
第12回フッサール研究会
第12回フッサール研究会

● 日時: 2014年3月10日(月)‐11日(火)
● 会場: 東海大学・高輪キャンパス、4101教室(四号館の一階)
     http://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/takanawa/
● 参加費: 1000円
● プログラム:

【3月10日】

10:00-11:00 受付
11:00-12:20 丸山文隆(東京大学)「人間と現存在との現象学:「ブリタニカ」草稿をめぐって」(要旨
12:20-13:20 昼休み
13:20-14:40 Andrea Altobrando(日本学術振興会/北海道大学)「On a Possibility of a
Phenomenological-Husserlian Monadology」(要旨
14:40-14:50 休憩
14:50-16:10 成瀬翔(名古屋大学)「心的ファイルとノエマ」(要旨
16:10-16:20 休憩
16:20-18:50 シンポジウム「フッサールと現代形而上学」(趣旨文と提題要旨
提題:秋葉剛史(日本学術振興会/埼玉大学)「フッサール知覚論と性質の因果説」
早坂真一(神戸大学)「命題的態度ならびに態度的対象の志向的分析」
コメンテーター:柏端達也(慶應義塾大学)
司会:植村玄輝(日本学術振興会/立正大学)
19:20- 懇親会

【3月11日】

10:00-11:20 松井隆明(東京大学)「現象学的還元と構成の問題—フッサール超越論的観念論の基本的構図」(要旨
11:20-11:30 休憩
11:30-12:20 ミーティング
12:20-13:20 昼食
13:20-14:40 満原健(京都大学)「西田幾多郎による志向性理論批判」(要旨
14:40-14:50 休憩
14:50-16:00 横山達郎(慶應義塾大学)「『危機』と『呪縛』—「自然の数学化」を巡る大森荘蔵によるフッサール批判—」(要旨
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# by husserl_studies | 2014-01-12 21:58 | フッサール研究会
第12回フッサール研究会シンポジウム「フッサールと現代形而上学」
「フッサールと現代形而上学」

司会:植村玄輝(日本学術振興会/立正大学)
提題:秋葉剛志(日本学術振興会/埼玉大学)、早坂真一(神戸大学)
コメンテーター:柏端達也(慶應義塾大学)

開催趣旨
フッサール現象学のいくつかの側面がいわゆる分析的伝統における形而上学(「現代形而上学」)と高い親和性を持つという事実は、いまや多くの研究者によって認識されているといっていいだろう。こうした状況におそらくもっとも大きく貢献したのは、ケヴィン・マリガン、ピーター・サイモンズ、バリー・スミスによる一連の仕事である。これらの仕事はフッサール研究に二つの実り豊かな展開可能性をもたらした。つまり、(1)フッサールの議論を現代形而上学の道具立てを用いて明確化し発展させる可能性と(2)その逆に、フッサールの発想を現代形而上学で盛んに論じられている問題の解決に役立てるという可能性である。本シンポジウムの目的は、マリガンらの仕事ではもっぱら初期フッサールに関連づけられてきたこれらの可能性を、いわゆる超越論的転回以降のフッサールに即して示すことにある。フッサールと現代形而上学の双方に通じた二人の提題者による報告と、現代形而上学の専門家によるそれらへのコメントを通じて、フッサール現象学の新たな展開可能性をなるべく具体的に浮かび上がらせたい。

秋葉剛志「フッサール知覚論と性質の因果説」
E・フッサールはその知覚論において、事物—―空間的広がりをもち時間を通じて持続する事物—―は、多様な現れのもとで与えられることを強調している。それらの多様な現れは、あるものは意識の顕在的な与件として、他のものはそれを取り巻く地平として、相互にきわめて密接な体系的連関を形成する。そしてフッサールによると、事物はまさにこうした体系的連関をなす無数の現れの総体として(あるいはそれによって)構成されるのである。

本提題の目的は、フッサールが提示するこのような知覚論を、現代の分析形而上学の道具立てを使って読み直すことである。なかでも今回注目したいのは、性質論(性質という存在者の実在や本性について探究する形而上学の下位分野)における有力な立場の一つとみなされている性質の因果説(S・シューメイカーらの提案するもので、「力能説」などとも呼ばれる)である。この立場によると、それぞれの性質は、相互に因果的な連関をなすような無数の力能からなる束として分析される。言い換えると、性質の存在はその因果的振る舞いによって尽くされるのである。提題者のみるところ、フッサールの知覚論は、このような性質分析と比すべき多くの内容を含んでおり(上の「性質」を「事物」に読み換えてみれば、両者の形式的類似性は明らかだろう)、それとの比較によっていくつかの特徴を際立たせることができる。本提題では、これを具体的に示すことを主目的とする。

参考文献
E. Husserl, Ding und Raum: Vorlesungen 1907, hrsg. von K-H. Hahnengress, Meiner, 1991.
S. Shoemaker (1980). “Causality and Property.” In Peter van Inwagen (ed.), Time and Cause. D.Reidel. Reprinted in his Identity, Cause and Mind (expanded edition), Oxford University Press, 2003: 206–33.
S. Shoemaker (2007). Physical Realization, Oxford University Press.

早坂真一「命題的態度ならびに態度的対象の志向的分析」
分析哲学では、「信じる」や「願う」などの命題的態度を表す動詞の分析においては、そのような動詞を含む文の意味論的分析が中心を占めてきた。そして、特に、態度的動詞の補語の位置に来るthat節が意味論的値として何を取るのか、という問題は存在論に関わっている。that節の意味論的値としては、命題、あるいは事実や可能性が考えられ、どの存在者を想定したほうが、態度的動詞を含む文に対してより説得性の高い意味論的分析を与えることができるのかが議論されてきた。ところが、近年になり、命題的態度の分析には志向的分析が有効であることを示唆する論者が現れてきた。そのような論者のひとりであるMoltmannは、ブレンターノやフッサール、マイノングらのオーストリア学派の判断論を取り上げるべきだと主張している(Moltmann & Schnieder)。というのもMoltmannは、「Johnの主張」のような名辞化によって導入された態度的対象(attitudinal object)が命題的態度の分析において中心的な役割を果たすと考えられるからである。態度的対象はその態度をとっているagentの志向性から分離不可能であり、命題のように心から独立(mind-independent)であるとは考えられていない。さらに、名辞化という言語操作によって導入される対象であるため言語から独立(language-independent)でもない。フッサールもMoltmannと同様に名辞化され、真なる述定の主語となっているものを対象として認めるという考えを提示している。しかもフッサールの分析は、名辞化や、述定の主語にするという操作を単なる言語的操作としてではなく、志向作用の変様として分析する。このようなフッサールの志向性分析は、Moltmannの議論をより精緻に補強するように思われる。本発表では、これを実際に示したいと思う。特に、態度的動詞を含む文に現れる命題的要素に、意味論的値としてどのような存在者を割り当てるかは、規約や説得性、自然さの問題ではなく、その命題的態度をとっているagentの志向性の問題であるということを示したい。

参考文献
Husserl, E. Erfahrung und Urteil, Felix Meiner Verlag Gmbh, 1999.
―――. Formale Und Transzendentale Logik: Versuch Einer Kritik Der Logischen Vernunft. Mit Erganzenden Texten. (Husserliana XVII), Kluwer Academic Pub, 1974.
―――. Logische Untersuchungen, Zweiter Band Erster Teil (Husserliana XIX/1), Springer, 1984.
King, J. C. “Designating Propositions,” Philosophical Review, 111, 2002, 341–371.
Moltmann, F. “Nominalizing Quantifiers,” Journal of Philosophical Logic, Springer Netherlands, 32, 2003a, 445-481.
――― “Propositional Attitudes Without Propositions,” Synthese, 135, 2003b, 77–118.
――― “Nonreferential Complements, Nominalizations, and Derived Objects,” Journal of Semantics, 21, 2004, 1-43.
――― “Attitudinal Objects,” 2009, unpublished,
http://semantics.univ-paris1.fr/pdf/attitudinal%20objects-publ2.pdf
―――. “Propositions, Attitudinal Objects, and the Distinction Between Actions and Products,” Canadian Journal of Philosophy, Supplementary Volume on Propositions, Edited by G. Rattan and D. Hunter, forthcoming. http://philpapers.org/rec/MOLPAO
Moltmann, F. & Schnieder, B. “Nominalization,”
http://semantics.univ-paris1.fr/pdf/Nominalizations%20-%20Project%20Description.pdf
Rosefeldt, T. “'That'-Clauses and Non-Nominal Quantification,” Philosophical Studies, 137, 2008, 301–333.
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# by husserl_studies | 2014-01-10 19:50 | 研究発表要旨
横山達郎「『危機』と『呪縛』:「自然の数学化」を巡る大森荘蔵によるフッサール批判」
「『危機』と『呪縛』:「自然の数学化」を巡る大森荘蔵によるフッサール批判」

横山達郎(慶應義塾大学)

近年、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)以降、フッサール現象学において提出された「生活世界」という概念が、狭義のフッサール研究あるいは現象学研究の枠組を超えて(例えば、英米圏の分析哲学の伝統における、「心身問題」へのアプローチへの批判といった文脈において)、大きな注目を集めている。

 『危機』におけるフッサールによれば、ガリレイ・デカルトに始まるいわゆる「科学革命」の過程において、自然が「数学化」されたこと、そしてこの「数学化された自然」が我々の「生活世界」から、ある意味において遊離し、一人歩きを始めたことが、「学問の危機」の温床としてあるとされる。

 『危機』におけるフッサールは、この「自然の数学化」を科学革命の「源泉」「原因」としてみなしていると考えられるが、この点について、疑義を提出したのが『知の構築とその呪縛』(以下『呪縛』)における大森荘蔵である。

大森は『呪縛』内で、『危機』のフッサールは、「原因」と「結果」を取り違えていると論じる。すなわち、大森によれば、科学革命の真の源泉は、我々の「感覚的性質を「物」から排除して人間の「意識」あるいは「精神」に押し込めたこと」 *1にあるとし、「自然の数学化」は、そこからのむしろ「結果」であると強調する。

更に、大森は、フッサールが「数学化」ということで表している内実が、「具体的で経験的な現実世界から出発するが、それとひどくかけ離れた抽象的世界」 *2の構築であるとし、現実の諸科学は、フッサールが言う意味での、抽象化も数学化もされていないと批判する(「フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える」 *3)。

本発表では、この大森『呪縛』による『危機』批判の妥当性を吟味し、「自然の数学化」のより十全な理解を提出することを目標とする。

*1 大森荘蔵 (1998)『大森荘蔵著作集 第七巻 知の構築とその呪縛』、岩波書店、p.107。
*2大森 (1998) p.109。
*3大森 (1998) p.109。
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# by husserl_studies | 2014-01-10 19:38 | 研究発表要旨
満原健「西田幾多郎による志向性理論批判」
「西田幾多郎による志向性理論批判」

満原健(京都大学)

これまで数多くの哲学者がフッサールの哲学に対して批判を行ってきた。西田幾多郎もまた、1911年に「認識論に於ける純論理派の主張に就て」という論文でフッサールの哲学を日本に紹介して以降、これを評価するとともに複数の論点について批判をしている。たとえば、1927年に発表された「知るもの」という論文で西田は以下のように述べている。「意識現象は志向的とか意味を荷うとか考えられるのであるが、私は単に志向的作用と考えることによって尚意識の本質を明にすることはできないと考える」(『西田幾多郎全集』第三巻、岩波書店、2003年、539ページ)。ここでは明らかに、意識の特徴は志向性にあるというブレンターノが再発見しフッサールらに受け継がれた主張への批判が表明されている。西田は前年の1926年に「場所」という題の論文を発表し、「場所」という概念でもって独自の哲学を築こうと試みはじめていた。この時期の西田は、意識は志向性という特徴に基づいて捉えるべきではなく、むしろ一種の「場所」として理解すべきだと主張しているのである。

本発表では、西田のこの主張を検討する。すなわち、志向性の理論のどこに欠陥があると西田が考えているのか、なぜ意識を志向性をもったものではなく「場所」として捉えるべきと主張されているのかを論じることによって、西田とフッサールの哲学との分岐点を明らかにする。

ただし、西田が参照したフッサールの著作はほとんど『論理学研究』と『イデーンⅠ』に限られているため、西田の批判はフッサール批判としては偏ったものとなってしまっている。たとえば『第一哲学』の第二部では、自我が反省する自我と反省される自我とに明確に区別された上で議論が展開されているのだが、西田はそれを知らず、現象学の自我概念が主観としての主観ではなく客観化・対象化された主観にすぎない、と批判をしている。そのため本発表では、西田のフッサール理解の一面性や過ちを指摘しつつ、それでもなおフッサールに対して有効と考えられる批判点を見出す、という作業を行う。それを通して、西田自身が想定していなかった、そしてまた今まで指摘されてこなかった両者の思想の共通点もまた明らかにできると考えている。
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# by husserl_studies | 2014-01-10 19:36 | 研究発表要旨
松井隆明「現象学的還元と構成の問題:フッサール超越論的観念論の基本的構図」
「現象学的還元と構成の問題:フッサール超越論的観念論の基本的構図」

松井隆明(東京大学)

現象学的還元とは何か。『イデーンI』公刊から一世紀も経つというのに、今なおこうした問いが立てられなければならないというのは、奇妙なことのように思われるかもしれな い。だが、この問いはまだ応えられていない。それどころか、これが応える必要のある問いなのかどうかということさえ、議論の余地があるように思われる。

現象学的還元に対する懐疑論は、還元がなぜ必要なのか、還元によって何がもたらされるのかに関するフッサール自身の積極的な説明が、還元論を主題とする『イデーンI』第二篇のなかに見出されないという事実に由来する。近年、還元論の実践的な側面を強調す ることでこの問題に応えようとする解釈がいくつか提出されているが、これに対して、本発表は、超越論的観念論という枠組みを背景にこの問題に応えることを試みる。発表者の見るところでは、還元論は、『論研』以来のフッサールの志向性理論の基本的な方針と、「構成分析」という彼の超越論的観念論的な問題構制を押さえるならば、純粋に理論的に要請 されるものとして十分に解釈できるものである。

この構成分析という問題構制の背景には、知性とものの一致という「真理の名目的説明」 (KrV, A58/B82)に対する回答としての超越論的論理学、というカント的な問題構制があ る。したがって、フッサールの構成分析とは、新カント派マールブルク学派の汎論理主義や、同西南学派の価値哲学ととともに、伝統的な真理概念に対してカントが与えた回答に対するひとつの再回答として見られるべきものである。以上のような文脈を背景に、本発表は、フッサールの構成分析を、諸対象の成立にかかわる「規則」に関する問題として提示する。

ダン・ザハヴィが繰り返し強調しているように、たしかに、フッサールが書き溜めた草稿を参照することなしに彼の現象学を正確に理解することはできない、というのは事実だろう。だが、同時に強調されなければならないのは、これらの草稿によって、フッサールが生前に自らの手で出版した著作の価値が損なわれるわけでは決してない、ということである。本発表はできるかぎり公刊著作に依拠して議論を行おうと思う。もちろん、このことは、草稿が出版される以前の研究状況へと逆戻りすることを意味するわけではない。本発表は、草稿を、もっぱら公刊著作で表明されているフッサールの哲学を理解し解釈するための道具として用いるにすぎない、ということである。
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# by husserl_studies | 2014-01-10 19:34 | 研究発表要旨
成瀬翔「心的ファイルとノエマ」
「心的ファイルとノエマ」

成瀬 翔(名古屋大学文学研究科)

本発表は、分析哲学において研究が行われている「ファイル概念」とフッサール現象学との接点を明らかにすることを目指す。ファイル概念は哲学において新奇なアイディアではなく、グライスやストローソンによって60年代後半から70年代初頭に提唱され、確定記述の指示的用法や同一性言明を説明するために導入された。その後、指示の因果説を批判し、ファイルとその支配的源泉というアイディアを提唱したガレス・エヴァンズをはじめ、多くの研究がなされており、心の哲学においてもルース・ミリカンが個体概念の内容をファイルとして捉える研究を行っているように、狭義の言語哲学を越えてファイル概念は哲学において広く受け入れられている。

これらの研究を継承し、フランソワ・レカナティは「心的ファイル・フレームワーク(mental-file framework)」を主張する。レカナティの心的ファイルという概念は、特定の対象に関する情報をひとまとめにしておくために用いられるものであり、固有名の理解は、その音声によってしるし付けられたファイルと話し手がそこに収めている情報からなるとみなされる。レカナティによれば、心的ファイルはエヴァンズが主張する非記述的意義に他ならず、対象との「認識的に有益な関係(epistemically rewarding relation)」によって獲得される。そのようにして獲得された心的ファイルは単称名辞のように対象を直接的に指示するのではなく、そのファイルを制作する際に主体と対象の間の認知的関係によって個別化されたフレーゲの「意義」、ないしバイアーによるとフッサールの「ノエマ概念」に相当する役割を果たす(Beyer 2008)。

本発表ではレカナティの心的ファイルとノエマ概念の親近性を示し、フッサール現象学におけるノエマ概念をめぐる議論に新たな光を当てることを目指したい。

Beyer, B. (2008) Noematic Sinn, in F. Mattens (ed.) Meaning and Language: Phenomenological Perspectives Phaenomenologica Vol.187, pp. 75-88
Evans, G. (1982) The Varieties of Reference (edited by J. McDowell). Oxford: Clarendon Press.
Recanati, F. (2012) Mental Files. Oxford: Clarendon Press.
Smith, D.W.(1982), “Husserl and Demonstrative Reference and Perception”, in HICS, pp.193-213.
Smith, D.W. & McIntyre, R(1971), “Intentionnality via Intensions,” in The Journal of Philosophy, vol.LXVIII, pp.541-561.
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# by husserl_studies | 2014-01-10 19:31
Andrea Altobrando "On a Possibility of a Phenomenological-Husserlian Monadology"
"On a Possibility of a Phenomenological-Husserlian Monadology"

Andrea Altobrando(日本学術振興会/北海道大学)


The terms “monad” has a peculiarly strong ontological as well as metaphysical “taste”. The fact that Husserl uses the term “monad” in order to describe the transcendental as well as empirical subject seems in fact to support the idea that his theory of the “phenomenological field of evidence” as well as of “subjectivity” (the two concepts often coinciding) leads to solipsism. This last is principally considered epistemological. Nevertheless, exactly the use of the term “monad” seems to suggest some sort of solipsism also from an ontological point of view. Quite bewildering is then that Husserl makes large use of this term in the 5th Cartesian Meditation, which is devoted to the analyses of intersubjectivity and to its establishment as most fundamental transcendental ground of knowledge and experience.

In order to understand if and how Husserl’s use of the term “monad” is consistent with his general phenomenological frames (especially “intuitionism” and “epoche”) and which can be the systematic consequences of the “monadological” view of subjectivity, I will briefly sketch the path of considerations and reflections which seems to lead Husserl to the adoption of the concept of monad in its phenomenological philosophy. I will show which can be some analogies with Leibniz’ conceptions, not in order to make a precise comparison between the two, but rather i) to better point out the peculiarities of Husserl’s framework and to ward off misunderstandings, as well as ii) to track down its possible inconsistences or aporias.
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# by husserl_studies | 2014-01-10 19:30