カテゴリ:フッサール研究会特別企画( 8 )
フッサールの新資料を読む(6):『論理学:1896年講義』と『判断論についての研究』
日時:2016年11月25日(金)
*開始・終了時間は、下記の仮タイムテーブルから変更される可能性があります。
会場:高千穂大学1号館1階 1103教室
*キャンパスへのアクセスはこちらを、キャンパス内の地図はこちらを参照してください。

報告者:富山豊(東京大学)、秋葉剛史(千葉大学)
企画・司会:植村玄輝(岡山大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2015年までの14年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.71冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。
以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第六弾として、今回は『フッセリアーナ資料集』第1巻『論理学:1896年講義』(2000年刊)と『フッセリアーナ』第40巻『判断論についての研究』(2009年刊)を取り上げる。ボルツァーノの大著『学問論』(1838年)をフッサールなりの観点から辿り直す1896年講義を収めた前者は、『論理学研究』で表明される純粋論理学の構想の前史をなす、最重要資料である。また、同講義で論理学の対象として導入されるイデア的な意味とその分類をめぐる議論は、フッサールがその後集中的に論じることになる判断とその志向性に関する問題を(事実上)先取りしている。そして、この問題に深く関連するフッサールの1890年代前半から1918年までの草稿を収めたものが後者である。これらの草稿では、命題の分類、命題と事態、真理と存在、論理学の対象などといった純粋論理学・形式的存在論に属する問題が、判断の志向性に関する分析と密接に関係づけられつつ論じられている。
内容上深い関係にある二つの巻を同時に取り上げることによって、初期から中期にかけてのフッサールにおける学問論・判断論に関する理解が深められることが期待される。当日は、富山豊氏が『論理学』を、秋葉剛史氏が『判断論についての研究』を担当する。

タイムテーブル(仮)
16:00~16:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
16:10~16:50 報告1:富山豊『論理学』
16:50~17:30 報告2:秋葉剛史『判断論についての研究』
17:30~17:45 休憩
17:45~19:00 ディスカッション
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by husserl_studies | 2016-10-11 21:00 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(5):『ベルナウ草稿』と『C草稿』」
日時:2016年3月10日(木)、16:00-19:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 末川記念会館 第三会議室
http://www.ritsumei.ac.jp/campusmap/kinugasa/


報告者:村田憲郎(東海大学)、吉田聡(千葉工業大学)
企画・司会:植村玄輝(立正大学/高知県立大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2015年までの14年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.71冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第五弾として、今回は『フッセリアーナ』第33巻『時間意識についてのベルナウ草稿(1917/18)』(2001年刊)と『フッセリアーナ資料集』第8巻『時間意識についての後期草稿(1929-1934):C草稿』(2006年刊)を取り上げる。『イデーンI』(1913年刊)において時間意識を現象学にとって避けることのできない最重要問題とみなしつつも、生前のフッサールは、この問題への取り組みの成果として、1904/05年の『時間講義』(1928年刊)だけを発表した。したがってフッサールの時間論を論じる場合、他の主題に比べてよりいっそう、草稿に依拠することが必要になる。ところが、『フッセリアーナ』第10巻(1966年刊)の附論として採録された初期の草稿群を除いては、時間意識に関連するフッサールの草稿は、今回取り上げる二つの巻が刊行されるまで断片的なかたちでしか公にされてこなかった。

もちろん、『C草稿』に採録されたテクストについても、フッサール文庫に保管された草稿およびそのトランスクリプトを用いた研究がそれ以前からなされており、その内容はフッサール研究者に知られていないわけではなかった。しかし、『ベルナウ草稿』に収められた草稿については、それらが1969年になってはじめてフィンクからルーヴァンのフッサール文庫に譲渡されたというやや特殊な事情がある(cf. Hua XXXIII, xxv)。これが意味するのは、フッサール後期の時間論に関する研究も、ある時代までは、中期の時間論へとアクセスできない状態でなされたということだ。(ブラントの『世界・自我・時間』およびヘルトの『生き生きした現在』という後期時間論に関する古典的な研究書がそれぞれ1955年と1966年に刊行されたという事実を、ここで指摘しておくべきだろう。)

こうした点を踏まえ、本企画では、遅れてきた者の特権を最大限に行使し、資料上の制約が劇的に少なくなった現在の観点から、フッサールの中期以降の時間論に迫りたい。『ベルナウ草稿』を村田が、『C草稿』を吉田がそれぞれ担当する。

タイムテーブル
16:00~16:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
16:10~16:50 報告1:村田憲郎『ベルナウ草稿』
16:50~17:30 報告2:吉田聡『C草稿』
17:30~17:45 休憩
17:45~19:00 ディスカッション
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by husserl_studies | 2016-01-21 19:53 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画「田口茂『現象学という思考』合評会」
2015年12月19日(土曜日)、14時-18時
東海大学高輪キャンパス(4号館2階 4201教室


企画・司会:*植村玄輝(立正大学/高知県立大学)、八重樫徹(東京大学)
提題者:田口茂(北海道大学)、納富信留(慶應義塾大学)、山田圭一(千葉大学)、佐藤駿(東北大学)

開催趣旨
田口茂氏の『現象学という思考:〈自明なもの〉の知へ』(筑摩書房、2014年)は、フッサールを手掛かりとしながらも、ときに大胆にそこから離れつつ、著者自身の手によって(少なくとも広いいみで)フッサール的な現象学を実践してみせる、意欲的かつ異色の——といって差し支えないだろう——著作だ。不意打ちの生活世界論にはじまり、「物」・「本質」・「類型」・「自我」・「変様」・「間主観性」というさまざまなトピックを順番に論じる本書は、あるひとつのアイディアによって貫かれているように見える。それは、日常的な経験を私たちにとってあたりまえの(田口氏がより多用する言い方をすれば、「自明な」)ものにしているのは、そうした経験のうちで非主題的に流動する現れの運動であり、そこで生じている媒介という現象であるというアイディアだ。これによって驚くべき有機的なつながりを各章のあいだに生み出すことに成功した本書は、まさにそのような特徴ゆえに、入門書としても通用する丁寧さを一方で備えながらも、一筋縄ではいかない濃密な論考となっている。これをフッサール研究会の特別企画で取り上げない理由はない。そこで今回は、古代哲学と現代哲学の専門家として納富信留氏と山田圭一氏をお招きし、本書について、それぞれの観点から論評を行っていただくことにしたい。また、フッサールおよび現象学の研究者を代表して、佐藤駿氏にも論評に加わっていただく(ただしその際、「フッサールとの違いを指摘しても、本書の不備を指摘したことにはならない」(26–27頁)という著者の考えは最大限尊重される)。

プログラム
14:00-14:10 イントロダクション
14:10-14:25 田口茂「自著紹介」
14:25-14:55 佐藤駿「流れと媒介」
14:55-15:25 山田圭一
15:25:14-55 納富信留
15:55-16:10 休憩
16:10-16:40 著者の応答
16:40-18:00 全体討論

提題要旨

佐藤駿「流れと媒介」

平易で読みやすい文章、卓抜な表現と比喩、一歩踏み込んだ独自の解釈ーー田口の著書『現象学という思考』(筑摩書房、2015 年)は、現象学(とりわけフッサールのそれ)を研究し、それについて伝えるべきことがあるような人間にとっては、心地好い嫉妬を覚えるような美点をいくつも具えている。「本書が提示しているのは、最終的には、筆者が考える現象学であり、それをスタンダードなものと考えるのは危険である」(26 頁)と断りこそすれ、本書によって提示されている読みと理解が、フッサールの思考に付き添い、ともに真剣に考えた末にのみ展開できる現象学の姿であるということは、フッサールを知る者の眼には明らかだろう。もちろん、その射程は決してフッサール現象学の理解のみに留まるものでないことは付け加えるまでもない。

その本書で用いられるキーワードのひとつが「媒介」である。この語によって示唆されている視点は、そのオリジナリティと含蓄のゆえに読み手にとって少しく困惑を覚えさせる可能性がある(私だけかもしれないということは否定できないが)。そこで本提題では、特に本質と間主観性の論述に関して「媒介」という概念の内容を問い、議論の手がかりとしてみたい。 例えば、田口は本質について二通りの言い方をしている(ように見える)。一方では、諸現象の連合的な無際限の結びつきの媒介者となっているような点のことをフッサールは「本質」と呼んだと書き、また同時に、多様な契機の間の結びつきの現象、媒介の現象そのものを「本質」と呼んでも不適切とは言えないだろうと書いている(120 頁)。このような二つの言い方で本質が語られるとき、その内実は同じものだろうか、それとも異なるのだろうか。このような問いが浮かんでくるのは、媒介という概念の射程と意味内実を私自身があまり理解できていないからだろう。そこでさらに、間主観性について論じられた第七章を参照しながら問いをいくつか重ねよう。田口はフッサール現象学ではお馴染の「感情移入」という言葉を避け、身体の「響き合い」について語り出 す。これはフッサールが「対化」と呼んだものでもあり、媒介であり、また変様でもある、と。そうなれば当然、ここで媒介という概念が、本質がそうであると言われた媒介とどのような点で同じか,あるいはどのような点で異なるのかが問題となろう。さらに、田口はいくつかの箇所で、「媒介」というこの語をある現象を指すのにも、また媒介されるはずの当のものを表わすのにも用いているように思われる(例えば、「逆に言えば、『一つの身体』というものは、そもそも響き合いのための『媒介』としてのみ、その存立を確保しているのである」(236 頁)、あるいは「身体は『転換点』として、媒介そのものとしてある」(238頁)など)。これはどのように理解すべきか。そして、媒介はここでは身体の響き合いであり、また変様でもあるということから、私の身体と、私のとも他者のとも言えない無記名の身体との関係への問いも、この関連で生じるだろう。この無記名の言わば「原身体」は、媒介という現象のうちにどのように位置づけられるべきか。

以上のような問いかけを通して、「現象学という思考」が私に見せてくれた風景をより鮮明にすることがで きればと思っている。

山田圭一

私は現在ウィトゲンシュタインが考えていた<熟知している対象に安らっている場面とその安らぎが破れる場面の違い>をどのような仕方で言語化していくかを悪戦苦闘しながら考えているところであるが、本著ではその区別について「類型化」という概念を用いて鮮やかな描写と分析が為されており、この点に関して多くの部分で共感を覚えるとともに、教えられるところが大きかった。さらに、知覚と思考の関係、個別的なものの知覚と抽象的なものの知覚についても現在いろいろと考えているところで、その点に関しても多くの刺激的な議論と考察のための示唆とアイデアを与えていただいた。しかも、それがこれだけ平易で日常的な語り口で述べられているという事実に感嘆せざるをなかった(余談だが、千葉大に一般の方々が読書会を行っている哲学サークルがあるのだが、なかなか現象学の理解が進まないということだったので本著を推薦してみたら、これならわれわれにも分かる、と大変喜ばれた)。

ただ、共感しているだけではあまり生産的な議論にならないし、せっかくの機会をいただいたので、提題では主に言語哲学的な観点から、以下の論点について私が感じたいくつかの疑問を提示してみたい。

1. 類型化の規範性について(本質直観と言語との関係)。
2. われわれは本当に「類型しか見ていない」のか。
3. 原事実の「原」性と超越論的主観性の関係について。
4. 「私」はどこに出てくるのか。

納富信留

田口茂氏の著書は、従来特有の術語が多用されてきた現象学において、それらの特殊な語り口を極力避けながら、私たちが生きる経験の現場を明らかにすることに集中している。この叙述は哲学としての現象学の開かれたあり方を示し、大きな成功を収めていると感じる。だが、それは哲学としてどこまで成功しているのか。田口氏が明瞭に示す現象学の思考様式は、例えば古代ギリシア哲学と対照させることで特徴が際立つ。そこで一見当然のように用いられる言葉が、強固な前提として思考を制約している可能性はないか。このような問題意識からいくつかのキーワードを検討することで、本書に別の光を当ててみたい。それらは「流れ」「意識」「豊かさ」である。

田口氏は私たちの生や経験を「流れる」という表現でくり返し描き出している。「流れ」とは比喩であるとして、一体どういう意味なのか? その装置は多面的で、考察の全体を導く手がかりとなっている。経験が「流れている」として、それは理論上の仮設なのか、観察される事実なのか、方法的なモデルなのか? ここでの考察の多くは「たえず流れている」という経験の特徴づけを外すと、機能しなくなるように見える。それは、すべてを「流れ」として捉える存在論(ヘラクレイトス、ベルクソンなど)と同じか。この点をまず検討したい。

また、本書では「意識」という言葉がさまざまな場面で登場する。近代哲学では当然に用いられるこの概念は、古代ギリシアには基本的に存在しない。私たちが自明だと思い、幅広く用いているこの「意識、意識的、意識化」といった表現は、信頼できるものなのか。それは一体何を意味しているのか?

最後に、田口氏は時折、現象学の思考が明るみにもたらす現象と経験の「豊かさ」に触れる。「豊か」とはどういう意味か? 私たちの生において隠れている経験世界はより豊かなのか。もしそうだとしたら、現象学という哲学の遂行は、私たちの生をより豊かにしてくれるはずである。だが、例えばプラトンの哲学は、感覚する経験を越えた本質の直観により豊かな生の地平を求める。それを覆す現象学は、果たして十分に私たちを説得してくれるのか?

 これらの言葉による考察が暗黙に依拠する前提や期待を再検討しながら、さらに疑問を深めてみたい。

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by husserl_studies | 2015-10-01 18:40 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(4):『生活世界』」
2015年11月6日(金)、18時〜21時
同志社大学 室町キャンパス 寒梅館6階 大会議室
https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/muromachi.html

企画・司会:植村玄輝
報告者:吉川孝(高知県立大学)、*山口弘多郎(大阪大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2015年までの14年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.71冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第四弾として、今回は『フッセリアーナ』第39巻『生活世界:先立って与えられる世界とその構成に関する考察』(2008年刊)を取り上げる。これまでに刊行された全集のなかで分量が一番多い——編者序文と原文校訂注を含むと1000ページを超える——この巻は、メインタイトルからは若干わかりにくいのだが、さまざまなトピックを扱う草稿を収めている。それらの草稿で緩やかに共有されている問題は、この巻のサブタイトルにもあるように世界の現象学的な構成分析である。(この点を少しわかりにくくしているようにも見える『生活世界』というメインタイトルは、おそらく、ここでとりわけ問題になる世界が直観によって与えられ、そのかぎりで学問以前の世界であるためだろう。)本研究会では、この巻を二人の報告者による分担で、二つの角度から取り上げる。まず山口が、前半部(第I–III、V–VI部)を中心に「生活世界と周囲世界」というテーマで報告を行う。次に吉川が、後半部(第IV、VII–X部)を中心に「確実性、真理、規範」というテーマで報告を行う。これらの報告によって、この巨大な巻の見取り図がえられることが期待される。

タイムテーブル
18:00~18:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
18:10~18:50 報告1:山口弘多郎
18:50~19:30 報告2:吉川孝
19:30~19:45 休憩
19:45~21:00 ディスカッション
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by husserl_studies | 2015-10-01 18:36 | フッサール研究会特別企画
「フッサールの新資料を読む(3):『超越論的観念論』と『論理学研究補巻』第一分冊」
2014年3月13日(金)
慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎514番教室

企画・司会:植村玄輝(立正大学/高知県立大学)
報告者:松井隆明(東京大学)、佐藤駿(東北大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2014年までの13年間では、『フッセリアーナ』として14冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.77冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第三弾として、今回は『フッセリアーナ』からフッサールの観念論的主張に関わる二つの巻を取り上げる。まずは松井が『超越論的観念論』と題された全集第36巻(2003年刊)について報告する。1908年から1921年までの超越論的観念論に関わるテクストを集成したこの巻は、「レアルな現実世界の存在はそれを経験する顕在的な意識なしにはありえない」というフッサールの観念論的主張が練り上げられる過程のドキュメントとしてきわめて重要である。とりわけ特筆に値するのは、この巻に収められたテクストでフッサールは現象学的還元という方法に(少なくとも明示的に)訴えずに観念論的主張を擁護しているという点だろう。この事実をどうやって受け止めるべきなのかという問題は、ディスカッションの時間にじっくりと検討したい。次に佐藤が、『論理学研究』の補巻として2002年に公刊された第20巻代一分冊に関して報告する。フッサールが1913年の夏に着手しはじめた『論理学研究』第六研究の改訂――この試みは結局頓挫する――のための草稿を集めた本巻は、「フッサールの新資料を読む」研究会第一回でも取り上げられた『論理学研究補巻』第二分冊における新たな記号論のきっかけとなる考察に加え、フッサールの超越論的観念論において重要な役割を果たす二つの可能性概念(「イデア的可能性」と「レアルな可能性・動機づけられた可能性」)に関する詳細な議論を含む。佐藤の報告は、とりわけこの論点に着目することになる。


タイムテーブル
15:00~15:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
15:10~15:50 報告1:松井隆明
15:50~16:30 報告2:佐藤駿
16:30~16:45 休憩
16:45~18:00 ディスカッション
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by husserl_studies | 2015-02-02 13:13 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(2)」
フッサールの新資料を読む(2):『一般的認識論(1902/03)』と『倫理学入門(1920/24)』

日時: 2014年11月28日(金)
会場: 慶應義塾大学三田キャンパス472教室
http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html

企画・司会:植村玄輝(立正大学/高知県立大学)
報告: 植村玄輝
    八重樫徹(成城大学/東京大学)


開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2013年までの12年間では、『フッセリアーナ』として13冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.83冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

以上のような事情によりよく対処することを目的した研究会の第二弾として、今回はフッサールの初期と後期の講義録を一つずつ取り上げる。今回はまず、植村が『フッセリアーナ資料集』第3巻『一般的認識論』(2001年)について報告を行う。1903年夏学期講義「一般的認識論」全体と、1898/99年冬学期「形而上学と、認識論の主要点」冒頭の抜粋からなるこの巻は、次の二点から注目に値する。第一に、これら二つの講義(とりわけ前者)は、大著『論理学研究』(1900/01年)の内容を概観するための格好の素材を提供している。第二に、これらの講義では、同書においてははっきりと語られなかった狙い(とりわけフッサールのプロジェクトにおける形而上学の位置づけ)や、同書の次の一歩に向けた試行錯誤の痕跡(たとえば、現象学と記述的心理学の関係)を見てとることができる。次に八重樫が、『フッセリアーナ』の第37巻『倫理学入門(1920/24)』(2004年)について報告を行う。この講義については、近年ますます注目を集めるフッサール倫理学に関するドキュメントとして注目している研究者も多いことだろう。八重樫の報告は、(1)この講義がなされたフライブルク時代のフッサール倫理学とゲッチンゲン時代のそれとの共通点・相違、(2)同講義においてフッサールが過去の倫理学説(とりわけ、スミス、ハチスン、シャフツベリーらに代表される、英国の道徳感情論)とどのように対決したのかという二点にとりわけ注目してなされる。なお、二つの巻の内容の隔たりを考慮して、今回はディスカッションの時間を報告ごとにわけて設けることにした。


タイムテーブル
17:00~17:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
17:10~17:50 報告1:植村玄輝(『一般的認識論(1903)』)
17:50~18:30 ディスカッション
18:30~18:40 休憩
18:40~19:20 報告2:八重樫徹(『倫理学入門(1920/24)』)
19:20~20:00 ディスカッション

問い合わせ 植村玄輝 uemura.genki#gmail.com (#を@に変える)
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by husserl_studies | 2014-09-08 10:02 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画 鈴木俊洋『数学の現象学』合評会
フッサール研究会特別企画
鈴木俊洋『数学の現象学』合評会

日時: 2014年8月7日(木曜日)14:00-18:00
会場: 東海大学高輪キャンパス 4号館1階 4101教室(四号館の一階)
http://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/takanawa/


企画: 秋葉剛史(成城大学非常勤講師)・植村玄輝(成城大学非常勤講師)
司会: 秋葉剛史
提題者: 鈴木俊洋(上智大学)、稲岡大志(神戸大学)、秋吉亮太(JSPS/京都大学)、富山豊(JSPS/北海道大学)


開催趣旨
最初期の論文・著作のタイトルの変遷――「変分法への寄与」(1883年)から「数の概念について」(1887年)・『算術の哲学』(1891年)へ――を眺めるだけでも分かるように、フッサールの哲学者としてのキャリアは、数学から数学の哲学へと関心を移すことではじまった。また、数学をめぐる哲学的問題にフッサールが生涯を通じて関心をもっていたことは、現象学の創始者としての名声を築くことになるその後の著作からも窺い知ることができる。これらのことは比較的よく知られているものの、フッサールの数学の哲学に関する日本語の本格的かつ包括的なモノグラフは、本合評会で取り上げる鈴木俊洋氏の『数学の現象学:数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学』(法政大学出版局)が2013年に公刊されるまでは存在しなかったといってよい。日本のフッサール研究にとって、同書の登場は歓迎すべき事件である。
だが、『数学の現象学』は先行研究が手薄な方面を単に補うだけの手堅い本ではない。フッサールに依拠しつつもそれを超えて独自の現象学的枠組みを作り出す試み――たとえば、「近位項」と「遠位項」という概念の導入による志向性理論の一般化――という側面を備え、さらには技術の哲学への接続を見据えた同書は、フッサール研究者のみならず、数学の哲学や現象学のさらなる展開可能性といった問題に関心を持つ人に対しても大きなアピールを持つに違いない野心的な著作である。
そこで今回の合評会では、数学の哲学を研究領域とする稲岡大志・秋吉亮太の両氏を評者としてお招きして、『数学の現象学』が彼らの目にはどのように映り、そこで彼らが何を考えたのかについて提題していただく。もちろん同書のフッサール研究・現象学研究書としての側面についても、もう一人の評者である富山豊氏に存分に語っていただくことになる。以上三つの提題に著者の鈴木氏による自著紹介と応答が付け加わることによって、『数学の現象学』の魅力と数学の現象学の今後の課題が浮かび上がるだろう。

プログラム
イントロダクション(10分)
鈴木俊洋「自著紹介」(20分)
三人の評者による発表(それぞれ最大30分:順番は追って発表します)
休憩(15分)
著者の応答(45分)
全体討論(60分)
(合計で最大四時間)
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by husserl_studies | 2014-05-12 17:30 | フッサール研究会特別企画
フッサール研究会特別企画「フッサールの新資料を読む(1)」
フッサールの新資料を読む(1):『論理学研究補巻』第二分冊と『知覚と注意』

日時:2014年3月9日(日) 15:00-18:00
会場:立正大学大崎キャンパス、1号館1階 第4会議室
※当日は日曜日のため門はどこもしまっています。
入るには、大崎キャンパスの大崎駅の側の正門(山手通りに面した入り口ではなく)
の脇にある防災センター(守衛室のような場所)に申し出ていただき、脇の地下駐車場から入り、1号館用のエレベーターで一階に上がってもらい、第4会議室にいっていただくということになります。以下を参照してください。
http://www.ris.ac.jp/access/osaki/ndex.html
http://www.ris.ac.jp/introduction/outline_of_university/introduction/osaki_campus.html

企画・司会:植村玄輝(日本学術振興会/立正大学)
報告:鈴木崇志(京都大学)
   葛谷潤(東京大学)

開催趣旨
今世紀に入ってからのフッサール研究に特有の事情の一つとして、全集『フッセリアーナ(Husserliana)』をはじめとした一次資料の刊行される勢いが明らかに増したということがあげられる。1950年の刊行開始から2000年までのちょうど50年では、(分冊も別々に数えるならば)合計32冊が全集として世に送り出されており、フッサールの一次資料が公になるペースは、平均すると一年に0.64冊でしかなかった(『フッセリアーナ記録集(Husserliana Dokmente)』第三巻として刊行された全10冊の書簡集のうち、索引を除く9冊をそこに加えたとしても、平均刊行ペースは一年に一冊に満たない0.82冊である)。それに対して2001年から2013年までの12年間では、『フッセリアーナ』として13冊、2001年に新設された『フッセリアーナ資料集(Husserliana Materialien)』として9冊が出版されている。つまり今世紀に入ってからは、一年に約1.83冊というそれまでの三倍弱(あるいは二倍以上)のペースで一次資料が新たに登場しているのである。もちろんこれらの資料には分量にも難度にもばらつきがあるため、単純な計算だけから結論を導くことはいささか安易ではある。だがそうはいっても、気づけば次の巻が出ているというここ十年あまりの状況を目の当たりにして途方に暮れたフッサール研究者は少なくないのではないだろうか。これでは全部を読むことはもちろん、読んだふりをすることさえできないよ、と。

本企画は、以上のような事情によりよく対処することを目的にしている。具体的には、さしあたり21世紀に入ってから公刊された22冊(2013年12月現在)から毎回1〜2冊をとりあげ、2〜3名によるサーヴェイ報告とそれに続くディスカッションを行うことで、当該資料に関する情報の共有を進めたい。今回はこうしたシリーズ企画の第一弾として、鈴木と葛谷がそれぞれ『論理学研究補巻』第二分冊(XX/2)と『知覚と注意』(XXXVIII)についての報告を行う。どちらの巻も1890年代から1910年代前半までのフッサールの研究草稿と講義を集成したものであり、共に認識の現象学的分析に深く関連するため(たとえば、前者では「表現とその他の記号の区別」や「認識における表現の役割」といった話題が、後者では「思念と注意が知覚で果たす役割」や「知覚における現出」といった話題が取りあげられている)、これらを同時に取りあげることは効果的であるように思われる。

タイムテーブル
15:00~15:10 司会者による趣旨説明とイントロダクション
15:10~15:50 報告1:鈴木崇志 『論理学研究補巻』第二分冊(Hua XX/2)
15:50~16:30 報告2:葛谷潤 『知覚と注意』(Hua XXXVIII)
16:30~16:45 休憩
16:45~18:00 ディスカッション

問い合わせ 植村玄輝 uemura.genki#gmail.com (#を@に変える)
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by husserl_studies | 2014-01-10 19:17 | フッサール研究会特別企画