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第12回フッサール研究会シンポジウム「フッサールと現代形而上学」
「フッサールと現代形而上学」

司会:植村玄輝(日本学術振興会/立正大学)
提題:秋葉剛志(日本学術振興会/埼玉大学)、早坂真一(神戸大学)
コメンテーター:柏端達也(慶應義塾大学)

開催趣旨
フッサール現象学のいくつかの側面がいわゆる分析的伝統における形而上学(「現代形而上学」)と高い親和性を持つという事実は、いまや多くの研究者によって認識されているといっていいだろう。こうした状況におそらくもっとも大きく貢献したのは、ケヴィン・マリガン、ピーター・サイモンズ、バリー・スミスによる一連の仕事である。これらの仕事はフッサール研究に二つの実り豊かな展開可能性をもたらした。つまり、(1)フッサールの議論を現代形而上学の道具立てを用いて明確化し発展させる可能性と(2)その逆に、フッサールの発想を現代形而上学で盛んに論じられている問題の解決に役立てるという可能性である。本シンポジウムの目的は、マリガンらの仕事ではもっぱら初期フッサールに関連づけられてきたこれらの可能性を、いわゆる超越論的転回以降のフッサールに即して示すことにある。フッサールと現代形而上学の双方に通じた二人の提題者による報告と、現代形而上学の専門家によるそれらへのコメントを通じて、フッサール現象学の新たな展開可能性をなるべく具体的に浮かび上がらせたい。

秋葉剛志「フッサール知覚論と性質の因果説」
E・フッサールはその知覚論において、事物—―空間的広がりをもち時間を通じて持続する事物—―は、多様な現れのもとで与えられることを強調している。それらの多様な現れは、あるものは意識の顕在的な与件として、他のものはそれを取り巻く地平として、相互にきわめて密接な体系的連関を形成する。そしてフッサールによると、事物はまさにこうした体系的連関をなす無数の現れの総体として(あるいはそれによって)構成されるのである。

本提題の目的は、フッサールが提示するこのような知覚論を、現代の分析形而上学の道具立てを使って読み直すことである。なかでも今回注目したいのは、性質論(性質という存在者の実在や本性について探究する形而上学の下位分野)における有力な立場の一つとみなされている性質の因果説(S・シューメイカーらの提案するもので、「力能説」などとも呼ばれる)である。この立場によると、それぞれの性質は、相互に因果的な連関をなすような無数の力能からなる束として分析される。言い換えると、性質の存在はその因果的振る舞いによって尽くされるのである。提題者のみるところ、フッサールの知覚論は、このような性質分析と比すべき多くの内容を含んでおり(上の「性質」を「事物」に読み換えてみれば、両者の形式的類似性は明らかだろう)、それとの比較によっていくつかの特徴を際立たせることができる。本提題では、これを具体的に示すことを主目的とする。

参考文献
E. Husserl, Ding und Raum: Vorlesungen 1907, hrsg. von K-H. Hahnengress, Meiner, 1991.
S. Shoemaker (1980). “Causality and Property.” In Peter van Inwagen (ed.), Time and Cause. D.Reidel. Reprinted in his Identity, Cause and Mind (expanded edition), Oxford University Press, 2003: 206–33.
S. Shoemaker (2007). Physical Realization, Oxford University Press.

早坂真一「命題的態度ならびに態度的対象の志向的分析」
分析哲学では、「信じる」や「願う」などの命題的態度を表す動詞の分析においては、そのような動詞を含む文の意味論的分析が中心を占めてきた。そして、特に、態度的動詞の補語の位置に来るthat節が意味論的値として何を取るのか、という問題は存在論に関わっている。that節の意味論的値としては、命題、あるいは事実や可能性が考えられ、どの存在者を想定したほうが、態度的動詞を含む文に対してより説得性の高い意味論的分析を与えることができるのかが議論されてきた。ところが、近年になり、命題的態度の分析には志向的分析が有効であることを示唆する論者が現れてきた。そのような論者のひとりであるMoltmannは、ブレンターノやフッサール、マイノングらのオーストリア学派の判断論を取り上げるべきだと主張している(Moltmann & Schnieder)。というのもMoltmannは、「Johnの主張」のような名辞化によって導入された態度的対象(attitudinal object)が命題的態度の分析において中心的な役割を果たすと考えられるからである。態度的対象はその態度をとっているagentの志向性から分離不可能であり、命題のように心から独立(mind-independent)であるとは考えられていない。さらに、名辞化という言語操作によって導入される対象であるため言語から独立(language-independent)でもない。フッサールもMoltmannと同様に名辞化され、真なる述定の主語となっているものを対象として認めるという考えを提示している。しかもフッサールの分析は、名辞化や、述定の主語にするという操作を単なる言語的操作としてではなく、志向作用の変様として分析する。このようなフッサールの志向性分析は、Moltmannの議論をより精緻に補強するように思われる。本発表では、これを実際に示したいと思う。特に、態度的動詞を含む文に現れる命題的要素に、意味論的値としてどのような存在者を割り当てるかは、規約や説得性、自然さの問題ではなく、その命題的態度をとっているagentの志向性の問題であるということを示したい。

参考文献
Husserl, E. Erfahrung und Urteil, Felix Meiner Verlag Gmbh, 1999.
―――. Formale Und Transzendentale Logik: Versuch Einer Kritik Der Logischen Vernunft. Mit Erganzenden Texten. (Husserliana XVII), Kluwer Academic Pub, 1974.
―――. Logische Untersuchungen, Zweiter Band Erster Teil (Husserliana XIX/1), Springer, 1984.
King, J. C. “Designating Propositions,” Philosophical Review, 111, 2002, 341–371.
Moltmann, F. “Nominalizing Quantifiers,” Journal of Philosophical Logic, Springer Netherlands, 32, 2003a, 445-481.
――― “Propositional Attitudes Without Propositions,” Synthese, 135, 2003b, 77–118.
――― “Nonreferential Complements, Nominalizations, and Derived Objects,” Journal of Semantics, 21, 2004, 1-43.
――― “Attitudinal Objects,” 2009, unpublished,
http://semantics.univ-paris1.fr/pdf/attitudinal%20objects-publ2.pdf
―――. “Propositions, Attitudinal Objects, and the Distinction Between Actions and Products,” Canadian Journal of Philosophy, Supplementary Volume on Propositions, Edited by G. Rattan and D. Hunter, forthcoming. http://philpapers.org/rec/MOLPAO
Moltmann, F. & Schnieder, B. “Nominalization,”
http://semantics.univ-paris1.fr/pdf/Nominalizations%20-%20Project%20Description.pdf
Rosefeldt, T. “'That'-Clauses and Non-Nominal Quantification,” Philosophical Studies, 137, 2008, 301–333.
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by husserl_studies | 2014-01-10 19:50 | 研究発表要旨
横山達郎「『危機』と『呪縛』:「自然の数学化」を巡る大森荘蔵によるフッサール批判」
「『危機』と『呪縛』:「自然の数学化」を巡る大森荘蔵によるフッサール批判」

横山達郎(慶應義塾大学)

近年、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)以降、フッサール現象学において提出された「生活世界」という概念が、狭義のフッサール研究あるいは現象学研究の枠組を超えて(例えば、英米圏の分析哲学の伝統における、「心身問題」へのアプローチへの批判といった文脈において)、大きな注目を集めている。

 『危機』におけるフッサールによれば、ガリレイ・デカルトに始まるいわゆる「科学革命」の過程において、自然が「数学化」されたこと、そしてこの「数学化された自然」が我々の「生活世界」から、ある意味において遊離し、一人歩きを始めたことが、「学問の危機」の温床としてあるとされる。

 『危機』におけるフッサールは、この「自然の数学化」を科学革命の「源泉」「原因」としてみなしていると考えられるが、この点について、疑義を提出したのが『知の構築とその呪縛』(以下『呪縛』)における大森荘蔵である。

大森は『呪縛』内で、『危機』のフッサールは、「原因」と「結果」を取り違えていると論じる。すなわち、大森によれば、科学革命の真の源泉は、我々の「感覚的性質を「物」から排除して人間の「意識」あるいは「精神」に押し込めたこと」 *1にあるとし、「自然の数学化」は、そこからのむしろ「結果」であると強調する。

更に、大森は、フッサールが「数学化」ということで表している内実が、「具体的で経験的な現実世界から出発するが、それとひどくかけ離れた抽象的世界」 *2の構築であるとし、現実の諸科学は、フッサールが言う意味での、抽象化も数学化もされていないと批判する(「フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える」 *3)。

本発表では、この大森『呪縛』による『危機』批判の妥当性を吟味し、「自然の数学化」のより十全な理解を提出することを目標とする。

*1 大森荘蔵 (1998)『大森荘蔵著作集 第七巻 知の構築とその呪縛』、岩波書店、p.107。
*2大森 (1998) p.109。
*3大森 (1998) p.109。
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by husserl_studies | 2014-01-10 19:38 | 研究発表要旨
満原健「西田幾多郎による志向性理論批判」
「西田幾多郎による志向性理論批判」

満原健(京都大学)

これまで数多くの哲学者がフッサールの哲学に対して批判を行ってきた。西田幾多郎もまた、1911年に「認識論に於ける純論理派の主張に就て」という論文でフッサールの哲学を日本に紹介して以降、これを評価するとともに複数の論点について批判をしている。たとえば、1927年に発表された「知るもの」という論文で西田は以下のように述べている。「意識現象は志向的とか意味を荷うとか考えられるのであるが、私は単に志向的作用と考えることによって尚意識の本質を明にすることはできないと考える」(『西田幾多郎全集』第三巻、岩波書店、2003年、539ページ)。ここでは明らかに、意識の特徴は志向性にあるというブレンターノが再発見しフッサールらに受け継がれた主張への批判が表明されている。西田は前年の1926年に「場所」という題の論文を発表し、「場所」という概念でもって独自の哲学を築こうと試みはじめていた。この時期の西田は、意識は志向性という特徴に基づいて捉えるべきではなく、むしろ一種の「場所」として理解すべきだと主張しているのである。

本発表では、西田のこの主張を検討する。すなわち、志向性の理論のどこに欠陥があると西田が考えているのか、なぜ意識を志向性をもったものではなく「場所」として捉えるべきと主張されているのかを論じることによって、西田とフッサールの哲学との分岐点を明らかにする。

ただし、西田が参照したフッサールの著作はほとんど『論理学研究』と『イデーンⅠ』に限られているため、西田の批判はフッサール批判としては偏ったものとなってしまっている。たとえば『第一哲学』の第二部では、自我が反省する自我と反省される自我とに明確に区別された上で議論が展開されているのだが、西田はそれを知らず、現象学の自我概念が主観としての主観ではなく客観化・対象化された主観にすぎない、と批判をしている。そのため本発表では、西田のフッサール理解の一面性や過ちを指摘しつつ、それでもなおフッサールに対して有効と考えられる批判点を見出す、という作業を行う。それを通して、西田自身が想定していなかった、そしてまた今まで指摘されてこなかった両者の思想の共通点もまた明らかにできると考えている。
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by husserl_studies | 2014-01-10 19:36 | 研究発表要旨
松井隆明「現象学的還元と構成の問題:フッサール超越論的観念論の基本的構図」
「現象学的還元と構成の問題:フッサール超越論的観念論の基本的構図」

松井隆明(東京大学)

現象学的還元とは何か。『イデーンI』公刊から一世紀も経つというのに、今なおこうした問いが立てられなければならないというのは、奇妙なことのように思われるかもしれな い。だが、この問いはまだ応えられていない。それどころか、これが応える必要のある問いなのかどうかということさえ、議論の余地があるように思われる。

現象学的還元に対する懐疑論は、還元がなぜ必要なのか、還元によって何がもたらされるのかに関するフッサール自身の積極的な説明が、還元論を主題とする『イデーンI』第二篇のなかに見出されないという事実に由来する。近年、還元論の実践的な側面を強調す ることでこの問題に応えようとする解釈がいくつか提出されているが、これに対して、本発表は、超越論的観念論という枠組みを背景にこの問題に応えることを試みる。発表者の見るところでは、還元論は、『論研』以来のフッサールの志向性理論の基本的な方針と、「構成分析」という彼の超越論的観念論的な問題構制を押さえるならば、純粋に理論的に要請 されるものとして十分に解釈できるものである。

この構成分析という問題構制の背景には、知性とものの一致という「真理の名目的説明」 (KrV, A58/B82)に対する回答としての超越論的論理学、というカント的な問題構制があ る。したがって、フッサールの構成分析とは、新カント派マールブルク学派の汎論理主義や、同西南学派の価値哲学ととともに、伝統的な真理概念に対してカントが与えた回答に対するひとつの再回答として見られるべきものである。以上のような文脈を背景に、本発表は、フッサールの構成分析を、諸対象の成立にかかわる「規則」に関する問題として提示する。

ダン・ザハヴィが繰り返し強調しているように、たしかに、フッサールが書き溜めた草稿を参照することなしに彼の現象学を正確に理解することはできない、というのは事実だろう。だが、同時に強調されなければならないのは、これらの草稿によって、フッサールが生前に自らの手で出版した著作の価値が損なわれるわけでは決してない、ということである。本発表はできるかぎり公刊著作に依拠して議論を行おうと思う。もちろん、このことは、草稿が出版される以前の研究状況へと逆戻りすることを意味するわけではない。本発表は、草稿を、もっぱら公刊著作で表明されているフッサールの哲学を理解し解釈するための道具として用いるにすぎない、ということである。
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by husserl_studies | 2014-01-10 19:34 | 研究発表要旨
丸山文隆「人間と現存在との現象学:「ブリタニカ」草稿をめぐって」
「人間と現存在との現象学:「ブリタニカ」草稿をめぐって」

丸山文隆(東京大学)

「ブリタニカ」草稿をめぐって、フッサールとハイデッガーとのあいだで争われた事柄とは、何であったのか。前世紀における二人の卓抜な哲学者の関係が先鋭化するトピックとして、この問いは繰り返されるに値する。ことに近年、ハイデッガーの『存在と時間』直後の思惟に関する研究が蓄積されつつあることを踏まえれば、ハイデッガーのフッサールに対する論難は新たな光のもとでみられうる。

本発表は、ハイデッガーの問い「それのなかで『世界』が構成されてくるところの存在者の存在様式は、どのようなものであるか」(1927年10月22日づけフッサール宛書簡への添付文書Ⅰ「事象上の諸困難」より)に注目する。ハイデッガーはこの存在者を「人間的現存在」と呼び、さらに直後でこれを「人間」と言い換えてすらいるが、この「人間」という表現は『存在と時間』(1927年)のみに基づくならば、擁護困難で不用意なものにみえる。同書で彼は、経験的「人間学」の諸概念が無批判に適用されることを恐れ、「現存在」という標語において〈われわれがそれであるところの存在者〉を定式化し、これを彼の存在論の基礎としたのであった。だが同書公刊以降の彼の関心は、〈そこにおいて総じて存在者の存在が了解されるところの存在者は、どのように存在しているのか〉、ないし、〈現存在はどの程度、他の存在者と同様に存在しているのか〉という問いへと向かっていく。『カントと形而上学の問題』(1929年)第四章において人間と現存在との関係への問いとして先鋭化されることになるこのような関心が、先の添付文書におけるハイデッガーの表現から読み取られうるのである。

そうすると、是非われわれが問題にしなくてはならないのは、ハイデッガーが上述の関心からしてフッサールに要求した〈「世界」は人間において構成される〉という事象への接近は、どの程度正当化可能であるか、ということである。

このことの吟味は次の手順で行われる。
 1.ハイデッガーによる「現象学」概念の捉え返し(ことに、「現象」及び「態度変更」概念の捉え返し)を確認し、この捉え返しがどの程度(フッサールに対して)正当化可能かを確認する。
 2.上記現象学概念が、いかにして〈「世界」がそこにおいて構成されるところの存在者〉として「人間」を究明しなければならないのかという理路を再構成する。
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by husserl_studies | 2014-01-10 19:27 | 研究発表要旨
第11回フッサール研究会シンポジウム「志向性の哲学と現象学」 開催趣旨
第11回フッサール研究会シンポジウム「志向性の哲学と現象学」 開催趣旨

提題者:中畑正志氏(京都大学)、村田純一氏(立正大学)
特定質問者:佐藤駿氏(東北大学)、富山豊氏(日本学術振興会・北海道大学)
司会:浜渦辰二氏(大阪大学)

 フッサールは、『イデーンI』において、志向性を「現象学全体を包括する問題の名称」と見なしている。志向性はフッサール現象学の根本概念であり、そのプログラムによれば、あらゆる哲学的問題は志向性としての意識体験を分析することで解決される。しかし、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィナス、アンリなどのフッサール以後の現象学は、志向性に何らかの欠陥(主知主義、心身二元論の残滓、身体や情感の軽視など)を見いだし、ときには志向性の現象学を批判的に解体することで、それぞれ独自の立場を築きあげている。志向性が、哲学的課題を担いうる概念(現象学の根本概念)であるかどうかは、あらためて問い直されるべきであろう。
 志向性をめぐる議論は、現象学に特有のものではない。歴史的観点からも、この概念の豊かな鉱脈をたどることができる。アリストテレスは、感覚について「質料なき形相の受容」という見解を示していた。中世哲学においては、アリストテレスの「ノエーマ」というギリシア語の(アラビア語を経由した)翻訳として、intentioという語が用いられていた。デカルトは、「観念」を単なる思惟(=意識の様態)のみならず、それが表象するもの(現代風に言えば「内容」)の観点から考察している(観念のいわゆる「表象的実在性」)。ブレンターノはこうした背景を引き継ぎながら、「物的現象」から区別される「心的現象」のメルクマールとして「志向性」をとり上げることで、現代の哲学に通じる定式化をおこなった。志向性の概念は、現象学のみならず「心の哲学」においても重要な主題となっている。しかし、このような歴史のなかでも、ブレンターノを継承したフッサールほど、意識の根本特徴としての志向性に対して大きな可能性を見いだした者はいないように思われる。

 志向性は、いかなる意味において哲学の課題でありうるのだろうか。そもそもそれは、現象学的哲学の根本概念でありうるのだろうか。『イデーンI』の公刊から100年を迎えるのをきっかけに、あらためて志向性の可能性や限界を考察することは、フッサール研究に携わる者にとって重要な課題となる。この課題に向き合うためには、フッサール研究にとらわれない視座にたって、志向性の思想史的背景や哲学的論点を考慮する必要もあるだろう。そこで本シンポジウムは、フッサール現象学の内外から、志向性に関連する研究に取り組んでいる方を招き、活発な議論の場を形成することを目指す。
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by husserl_studies | 2013-01-20 23:36 | 研究発表要旨
宮坂和男「解釈学としての現象学:ディルタイがフッサールに与えた影響」
本発表の内容は「現象学と解釈学との関係」に関する考察である。現象学は後期のフッサールにおいてすでにかなりの程度まで解釈学的であることを主張する。このことは、ディルタイからの影響をこれまで考えられていたよりもはるかに大きいものと見なしたときにとられる見方である。ディルタイの哲学は、自然科学的な探究によっては明らかにされない人間の「生(Leben)」の考察を課題としている。ディルタイによれば、ヨーロッパでは18世紀以降、自然科学とは異なる仕方で人間の生を探究しようとする動きが生まれ、そのことによって歴史考察が促されたという。このことを論じる中でディルタイは「地平」「目的論」「世界」といった言葉を用いている。これらの言葉は後期のフッサールが頻繁に用いたものでもあり、フッサールがこれらの言葉を用いるようになったのはディルタイからの影響によるものだと見ることも十分に可能である。『危機』の中でフッサールは、自然科学によって自然が理念化されて本来の経験が覆い隠されてしまったことを批判し、「生世界(Lebenswelt)」に還帰すべきことを主張している。また『幾何学の起源』の中では、テクスト理解に関する考察を展開している。これらのことは、ディルタイからの影響を受けてフッサールが解釈学的な考え方をとったことによると解釈することもできる。このように、解釈学な考えと重なるものと解釈することによって、後期のフッサールの考えにあらためて光を当てることを本発表は意図する。なおその際、「現象学と解釈学との関わり」に関するリクールの解釈に言及する。ただそれを援用するのではなく、不十分なものとして批判する。本発表は、リクールの解釈を反面教師にする形で「現象学と解釈学との関わり」について考えようとするものでもある。
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by husserl_studies | 2013-01-20 23:34 | 研究発表要旨
村田憲郎「「実在概念」としての範疇:ブレンターノ『存在者の多義性』に見る存在論」
「最もよく引用される哲学者の一人だが、最も研究されることの少ない哲学者の一人」と言われるF.ブレンターノであるが、われわれフッサール研究者にしても、「志向性」を現代にもたらし現象学への道を開いたものの、「超越論的」次元に至ることのなかった「経験的」心理学者というイメージを抱きがちである。しかしこうした印象は、彼の処女作『アリストテレスによる存在者の多義性』(1862)におけるアリストテレスの範疇についての解釈を見る限り、修正を迫られよう。そこで探求されているのは「存在者としての存在者」とは何かという存在論の問題であるが、そこでの立場は経験主義的でもなければ心理主義的でもない。その後彼がどのように発展していったにせよ、出発点のこの立場を確認することは有益なことであろう。

本論ではこの著作におけるブレンターノ自身の立場を、異なる二つの立場と対比しながら際立たせたい。彼自身の整理によれば、当時「範疇」の地位をめぐって三つの立場があった。第一に、ツェラーに代表される、範疇とは実在的概念ではなく概念の「骨組み」であるとする立場。第二に、トレンデレンブルクに代表される、範疇とは言表における述語の概念であり、文法的形式の相違を反映して成立したものとする立場。第三に、ボーニッツに代表される、範疇とは存在するものそのものについての、実在的概念であるとする立場である。

第一の立場は、実在世界の手前または背後にあるいわば「英知界」にアプリオリな概念枠として範疇を位置づける点でカントやプラトンに近く、その意味で「観念論的」であると言える。第二の立場は、経験的な言語形式を徴表とするので明瞭ではあるが、アプリオリな基礎づけを失い経験主義に陥る危険がある。そしてブレンターノ自身は第三の立場に与しているが、この立場は実在世界そのもののうちにアプリオリな秩序が見出され、その支えとして範疇を位置づける立場であると言えよう。
またこの関連で、範疇と並んで存在者の多様な意味の一つとして挙げられる「真・偽としての存在者・非存在者」の位置づけについても扱う。

最後に戦後日本の議論(安藤孝行)にある、ブレンターノは三つの立場を「綜合」したとする、本発表の主張と一見異なるが実質的に融和不可能ではない見解についてもコメントしておきたい。
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by husserl_studies | 2013-01-20 23:33 | 研究発表要旨
金正旭「判断・真理・存在 ――リッカート‐ラスク論争を再考する―― 」
「バーデン学派」ないし「西南ドイツ学派」は、「価値Wert」概念を中心に据えた哲学を展開したことで知られている。とはいえこの学派はけっして一枚岩ではなく、リッカートとその弟子ラスクとのあいだに交わされた論争に目を向けるならば、むしろ彼らを一括りにするのは不当なのではないかとさえ思われるほどである。つまり、真理や認識といったトピックにおいてリッカートが従来の実在論的見方を捨てて「当為」や「実践性」を強調するに至ったのに対し、ラスクは逆にリッカートを批判しつつ実在論的見方へと回帰していくのである。

本発表の目標は、『認識の対象』第二版(1904年)ならびに「認識論の二途」(1909年)におけるリッカートの立場と、それに対するラスクの批判を取りあげ、両者がどのような仕方で対立していたのかを明らかにすることである。大まかに言えば、本発表は次の二点を示すことになるだろう。第一に、リッカートの実在論的見方に対する批判は、判断と直観についての彼の理解にもとづいている。すなわち彼は、判断は「である」を構成要素として含んでいるのに対し直観はそうではないがゆえに「当為」が要請される、と考えるのである。第二に、ラスクは「である」のようなカント的な意味での「カテゴリー」が直観「に対して」ではなく直観「において」働いていると主張する。彼によれば、リッカート的「当為」は直観において与えられる対象から派生するにすぎないのである。

リッカート‐ラスク論争に対する最終的な評価を下すことは、本発表の目指すところではない。それよりもむしろ、ブレンターノの判断論や『論理学研究』におけるフッサールの真理論、さらにはカントの真理論・認識論と関係づけることによってこの論争をよりよく理解することに努めたい。
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by husserl_studies | 2013-01-20 23:31 | 研究発表要旨
鈴木崇志「フッサール『論理学研究』における「独白」概念の検討」
本発表の目的は、フッサールの『論理学研究』において「独白」という概念がはたした役割を明らかにすることである。この目的を設定する理由は、『論理学研究』が、考察の対象となる「表現 Ausdruck」を「独白 einsame Rede」に限定したことが、後年のフッサールの他者論を理解するうえで重要であると考えられるからである。そこで、この目的を達成するために、『論理学研究』(Husserliana, Bd. XVIII, XIX/1, XIX/2)およびその補巻(Bd. XX/1, XX/2)を参照して、1890年代から1921年にかけての『論理学研究』の書き換えの過程をたどりなおすという方法をとる。これにより、「独白」概念が、1913年の『イデーンI』出版の時期を境にして、役割を変えていることが明らかになるだろう。

「独白」概念の役割の変化は、次のようにまとめられる。まず一方で、『論理学研究』第一版(1900/01年)の執筆当時には、「独白」概念は、記号が指示する意味、特にカテゴリー的形式に注目するために、表現の伝達的側面と、外的対象との関係の充実化という側面を「抽象 abstrahieren」するという役割をもっていた。

しかし他方で、『イデーンI』(1913年)では、意識の外にある超越的対象(レアールな事物や他者の体験など)は単に「抽象」されるのではなく「遮断 ausschalten」され、超越論的意識の側から構成されるべきものとなった。そこで、1913年以降に書かれた『論理学研究』第二版のための草稿のなかでは、「独白」概念は、遮断されたレアールな事物や他者の体験へと再び接近するための場としての役割をもつことになる。

特に他者の体験に関していえば、草稿では、「表現」を「独白」に限定しつつも、他者の発話についての考察がなされている。そこでは、他者の発話は、独白を行う私の意識に移し入れられたあとで理解されることになる。ただしその場合には、他者の発話の論理的な意味は理解されるが、「嘘つきや役者」(Husserliana, Bd. XX/2, S.44)の発話や、発話に伴う感情などは理解されない。

このように、「独白」に依拠しつつ、他者の体験にいかに接近するかという問いには、『論理学研究』のなかでは十分に答えられていない。フッサールの後年の他者論は、『論理学研究』の枠組みを離れてこの問いに答えようとする試みであったといえる。しかし、そのような他者論は、「独白」という独自の概念を背景にして成立しているという点で、依然として『論理学研究』の問題圏から完全に抜け出てはいないのである。
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by husserl_studies | 2013-01-20 23:29 | 研究発表要旨