カテゴリ:研究発表要旨( 36 )
知覚は誤らないのか:エコロジカル・アプローチをめぐって
 メルロ=ポンティの主著を引き合いに出すまでもなく、フッサールにおけるその端緒から、知覚の分析は現象学において中心的な役割を果たして来た。直観における明証にその最終審級を求める方法論的態度と、直観による充実化との相関において個々の作用の志向的内容を特徴づける志向性理論のアイデアは、初期の現象学において既に知覚にある特権的位置を与えていたものである。無論のこと、認識論的な哲学の体系の中で知覚に何らかの中心的な位置を与えること自体はさほど珍しいものではない。しかしながらそれ以前の哲学の伝統における知覚の扱いに対して現象学におけるそれを特徴づけるものがあるとすれば、それはフッサールやメルロ=ポンティといった人々による知覚の分析が、まさに個々の具体的な知覚という現象の様々な奥行きと多様性に寄り添った分析であったことだろう。こうした、具体的な経験の肌理細やかな豊かさを掬い取るという方針は、多くの現象学者が他の哲学的伝統に対して己に誇って来たものである。
 こうした特徴づけは、そうした具体性に即した知覚の分析が現象学以前においても存在しなかったわけではないという点においていささか誇張を含んではいるが、フッサールやメルロ=ポンティの果たした仕事の意義を評価する、という点では眼目のないものではないだろう。とはいえ、フッサールはもちろんのことメルロ=ポンティの没年から数えても、既に五十年以上が経過している。その後の現象学研究において、知覚の分析が常に研究のメインストリームであったとは到底言えないし、また数十年前の現象学者の果たした仕事がどれだけ偉大であれ、現在においても現象学が知覚の分析の最先端であるということはそこからは帰結しない。近年、知覚の分析において目覚しい研究成果がフッサール研究の業界を賑わす、といったことはあまり眼にしないのではないだろうか。
 こうした視点から見ると、近年の知覚論研究はむしろ認知科学や分析哲学の方面で活況を呈している。日本においても知覚論を専門とする若手の分析哲学者が活発に活動しているし、
2014年にウィリアム・フィッシュの定評ある入門書が邦訳されて以降、こうした分析哲学における知覚論の隆盛はぐっと近づき易いものになったと言えるだろう。それに比べて、現象学研究における知覚論研究は下火になってしまったようにも見える。
 そうした状況の中、このフッサール研究会でも創設期から活躍されていた、フッサール現象学にも造詣の深い染谷昌義氏の著書『知覚経験の生態学:哲学へのエコロジカル・アプローチ』が今年刊行された。だが、染谷氏の著書は、現象学から多くのヒントは得ているものの、知覚は誤らないという主張のもと知覚の表象的性格を否定し、環境の存在論からのアプローチを主張して現象学をはじめとする方法論的独我論を批判するなど、現象学研究者にとって手放しで味方として歓迎できるものとは言い切れない。認知科学・心理学の分野とも接しながらもやや異色なこのエコロジカル・アプローチからの刺激的な提案を受けて、知覚論研究の今後についてどのような展望が拓けるだろうか。今回のシンポジウムでは、同書著者の染谷昌義氏に問題提起をいただき、
分析哲学の知覚論に詳しい小草泰氏、フッサール研究者であり分析哲学の議論にも通じている葛谷潤氏に、染谷氏の議論に検討を加えていただく。
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by husserl_studies | 2017-03-22 10:46 | 研究発表要旨
植村玄輝「フッサールによる「世界無化」の考察は何をどこまで示したのか*」
超越論的現象学という哲学的プログラムに好意的なフッサール解釈者にとって、世界無化の考察は悩みの種であり続けてきた。『イデーンI』第49節でフッサールは、世界が無化された後にも意識が残り続けることを示すというそれ自体かなり問題含みの議論(この議論は第二節で詳しく取り上げる)から出発して、次の二つの主張へと至っているように見える。

(1) 意識は完結した内在的領域であり、物的な世界から独立して存在する。
(2) 物的な世界は志向的な存在であり、それに相関する意識に相対的にのみ存在する。

(1)によって意識の依存的存在という一見すると自明な考えが否定され、他の何にも依存しないといういみでの絶対性が意識に対して認められる。そして(2)によって、物的な世界が意識から独立して存在するというこれまた一見すると自明な考えも否定される。これら二つの主張は、額面通りに捉えるならば、物的な世界にはそれに属さない存在論的基盤があり、その基盤は非物的でいわば「心的」ないし「精神的」であるという主張へと通じているように見える。これが超越論的現象学の形而上学的含意のひとつだとすれば、フッサールが後に自分の立場を超越論的「観念論」と呼んだことには納得がいく。だが、そうした強い形而上学的見解を帰属させることは、フッサールを今なお真剣な検討に値する哲学者ではなくしてしまうのではないだろうか。こうして好意的な解釈者の多くは、フッサールの超越論的観念論を信じがたい立場にしないために、世界無化の考察をうまく処理するという課題を引き受けることになる。このとき典型的になされる評価は、『イデーンI』の世界無化の議論は、フッサールが本来ならば行うべきものではなかったものであり、実際にこの議論から帰結する見解をのちのフッサールは克服しているというものである**。
だが、実情はこのようにまとめることができるほど単純ではないように思われる。というのもフッサールは、1920年代以降にもいくつかの講義や研究草稿で(ときに『イデーンI』に明示的に言及しつつ)世界無化の考察をふたたび取り上げるからである。それらの講義や草稿には「世界なき意識は可能か」という問いを開かれたままにしているものも含まれるが、少なくとも明確な答えが与えられている場面では、フッサールは(ほとんど)いつでも『イデーンI』の立場を保持し続けるのである***。そのため、世界無化の議論が何を示しているにせよ、それをフッサールの公式見解から除外するような解釈は修正的・改定的なものであると言わざるを得ない。

およそこのような事情を背景に、われわれは本論で『イデーンI』の第47節から第49節を読み直したい。われわれの考察は以下のように進む。「1. 議論の文脈」では、『イデーンI』当該箇所をそれが含まれる同書第二篇の議論の脈絡の中に位置づける。「2.『イデーンI』第47–49節」では、そうした文脈を踏まえたうえで、関連する講義・草稿を適宜参照しながら、第47節から第49節での議論を追跡する。これら二節での作業を通じて、『イデーンI』第47節から第49節におけるフッサールの議論は、現象学的還元という操作を経ずに、つまり自然的態度の中に留まったままで超越論的観念論の主要テーゼである(1)と(2)を導くものとして姿を現すことになる。最後に、この帰結を踏まえ、現象学的還元の役割とその後のフッサールの超越論的現象学の展開についていくつかの所見を述べる

* 本発表は、発表者が2013年に哲学会のワークショップで行った報告の改訂版である。
** Cf. Rudolf Bernet, La vie du sujet (PUF, 1994).
***例えば以下を参照。VIII: 55, 74 [WS 1923/24]; Ms. F IV 3, 57a [wohl 1925]; XXXIX: 221 [wohl 1926]; III/2: 634–635 [um 1928]; XXXIX: 224–230 [wohl 1930]; Ms. B I 13 VI [1931]; XV: 151 [wohl Ende 1930, oder 1931]; XXIX: 85 [1935].
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by husserl_studies | 2017-02-14 23:09 | 研究発表要旨
峯尾幸之介「M・ガイガーによる価値美学の基礎づけ」
ミュンヘン学派の現象学的美学者M・ガイガー(1880–1937)は、美学という学問のうちに二つの可能性、すなわち「事実美学Tatsachenästhetik」と「価値美学Wertästhetik」を認めている。ガイガーの美学研究の大部分は、主観の美的態勢にかんするものであり、たとえばその代表が初期論文「美的享受の現象学への寄与Beiträge zur Phänomenologie des ästhetischen Genusses」(1913)における美的享受の心理学的研究である。しかしながらかれの念頭にはつねに価値美学の構想があったのであり(「美学は美的価値の学問である。」)、この論文においてもすでに価値美学的問題の重要性が示唆されている。そして、このような立場は遺稿「芸術の意義Die Bedeutung der Kunst」(1976)において、とりわけ心理学的方法による事実美学(そのほかには、社会学的、歴史学的、進化論的な美学)との対立のうちで提示されているのである。ガイガーは二つの異なる美的体験様式に注目することによって、事実美学と価値美学の対立、その原因を説明している。つまり、美的体験様式のうち「享受Genuß」を開始点とする場合において美学は事実学となり、「適意Gefallen」を開始点とする場合にそれは価値学となるのである。享受と適意はいくつかの観点にもとづいて区別されることになるが、とりわけ重要であるのは、もっぱら適意という体験様式においてのみ価値が捕捉されるということである。「適意には分別がありsehend、享受は盲目blindである。」こうしたことを確認しながら、本発表においては、「美的享受の現象学への寄与」および中期論集『美学への通路Zugänge zur Ästhetik』(1928)を参照しつつ、最終的に「芸術の意義」において結実する(あるいは、するはずであった)かれの価値美学の全体像を描き出すことにしたい。
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by husserl_studies | 2017-02-14 23:08 | 研究発表要旨
林遼平 「『危機』における「関心」分析と現象学の関心について」
フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以後『危機』)において、「関心(Interesse)」概念を、現象学の「無関心な傍観者(uninteressierter Zuschauer)」という態度を特徴づけるための、対比概念として使用している。フッサールは『危機』第35節において、何らかの関心の方向性を持った生を「職業(Beruf)」と呼び、生活世界における職業的な実践のあり方と、その実践の遂行者が持つ関心との繋がりを明確にしている。こうした 実践的な関心に対して、現象学的な態度は、そうした関心に共に参与しないこととして規定され、無関心な傍観者や「新たな理論的関心」を持った態度と命名される。

フッサールは『イデーンI』の中で、関心と無関心についてほとんど言及していない。しかしながら『第一哲学』講義では、エポケーと還元の遂行が持つ特徴を明確にするために、 関心概念についての分析が多くなされている(VIII 92ff)。そこでは、関心は存在定立を遂行し、特定の価値付けおよび目的を素朴に前提とする作用として定義され、無関心な態度はそのような個々の関心に参与しないこととして規定される。また『デカルト的省察』でも、無関心な態度と、関心を持った態度とが、世界についての存在定立の観点から言及されている (I 73ff)。このことから、フッサールが現象学態度を明確にするために、1920 年代以降の探求において、関心概念の分析を重要視していたと想定される。『危機』における生活世界論と実践的関心との結びつきは、その思想的発展の最終的な帰結であるということになるだろう。

このような背景から推測して、『危機』における関心についての記述は、現象学的な態度とその意図を理解する上で、重要な位置を占めていると考えられる。しかしながら、関心についての主題的な論述は、これまでの研究においてほとんどなされておらず、わずかにハーバーマスが「認識と関心」論文において触れているのみであるが、その言及も『危機』の試 みを歴史的背景に基づいて、否定的な批判を加えたものであり、内在的な視点から評価した ものであるとは言い難い。したがって本発表は、まずフッサールが関心概念をどう定義して いるかを確認した後に、フッサールが『危機』において、日常的な関心と対比しつつ、現象学に固有な関心を「世界意識」の分析を主題とする普遍的関心として考えていたことを示す。
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by husserl_studies | 2016-01-21 20:06 | 研究発表要旨
綿引周 「超越論的現象学は超越的認識の「謎」を解きうるのか」
1930 年に公開された「イデーンへのあとがき」では、『イデーン』第一巻の第二編で現象学的還元を動機づけていたのは「客観的認識の可能性の問題」であったとはっきりと書 かれている(V, 150)。その編の第二章で叙述されていたのは、この問題から超越論的現象学にとって本質的な諸々の洞察を得るための、後年「デカルトの道」と呼ばれることになるある一つの道であった。確かにフッサールはこの「デカルトの道」を満足のいくものと考えていたわけではない。しかし『論理学研究』の記述心理学的認識論では飽き足らず、 そこからフッサールを「超越論的」な現象学へと向かわせたそもそもの動機が認識論的な問題関心のうえにあったことは確かである。そうだとすれば「客観的認識の可能性の問題」 は、超越論的現象学を推し進めることで解かれるはずではないだろうか。

しかしソコロウスキーは「フッサールは超越のこの謎を解くあるいは解決すると主張しているわけではない」という。「実在性が直接、主観性によって構成される、すなわち実在性はその意味を主観性から受け取ると言った後でさえ、フッサールはその謎を蒸発させてしまったわけではない。実在性、すなわち意識に超越した何かがまさにその超越性において、意識にとってアクセス可能であるというパラドクスは残り続ける」(Robert Sokolowski, The Formation of Husserl’s Concept of Constitution, Ch. IV, pp. 134-5)。

1907年夏学期の『現象学の理念』講義では、客観の認識の理解しがたさというのは、認識がそれを「超越」したものに「的中」すると称されている点にあると述べられている。 認識のこの超越性を理解し損ねた(あるいは誤解した)ために、伝統的な認識論は独我論や懐疑論に陥ったのだが、本当にフッサールは、ソコロウスキーのいうように、この謎を謎のまま残しておいたのだろうか。

本発表ではソコロウスキーの見解に反し、フッサールは超越的認識の謎にある解決を用意していたことを示す。そのためにまず「超越的認識の謎」が何を意味しており、その解決とはどのようなものであるのかを明らかにする。そしてその謎を解くためにこそ、現象学的還元が方法原理として求められ、フッサールは「構成の問題」圏へと導かれたと論じる。だが超越的認識の謎を解くことが(フッサールのいう)「自然主義」にコミットする限り不可能である一方で、「構成分析」によってその謎が解かれうると考えるなら、超越論的現象学は何らかの反自然主義的な存在論ないし(狭義の)形而上学へのコミットメン トを前提ないし含意するはずである。本発表の残りの部分は「構成分析」という現象学の課題設定のもつ存在論的・形而上学的含意を引き出すことにあてられる。
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by husserl_studies | 2016-01-21 20:02 | 研究発表要旨
栁川耕平 「フッサール初期時間論から中期時間論への予持概念の変化」
本発表では、フッサールの初期時間論*における予持概念と彼の中期時間論における予持 概念を比較し、それらの間に違いがあることを示す。

予持に関する先行研究としては、たとえばD.ローマーの、「フッサールのベルナウ草稿に つながる予持の分析――予持は何を“予持”するのか?」**を挙げることができる。この論文 の中でローマーは主に『ベルナウ草稿』(以下『ベルナウ』と省略)を扱い、また必要に 応じて『内的時間意識の現象学』(以下『時間意識』と省略)を扱いながら、予持概念の 考察を行っている。彼は「予持は内容的には何を予持しているのか」(196頁)という問い を立て、その答えとしてヒュレー的与件に向かう予持(彼はこれをH予持と呼んでいる)と、 把持に向かう予持(これはR予持と呼ばれている)という二種類の予持を示し、さらにH予 持については更なる解明が必要になることを予告している。この研究は確かに『ベルナウ』 の内容を正しく述べており、また彼の考察自体も示唆に富んだものなのだが、しかしこの 研究は二つの点で不満の残るものであると言わざるを得ない。第一に、『時間意識』の予 持概念を参照してはいるものの、それと『ベルナウ』における予持概念とを比較していな い。また第二に、ローマーが『時間意識』から引用した箇所はいずれも1917年に書かれた ものであり、それ以前の箇所において予持がどのように描かれているかを考察していない。

確かに『ベルナウ』における予持の記述に比べれば、『時間意識』をはじめとした初期 時間論における予持の記述は、粗末なものと言わざるを得ない。しかしそのことは、初期 時間論における予持の記述は無視しても構わない、ということにはつながらない。初期時 間論にも予持についての記述がある以上、それらについても考察しておくべきであろう。

そこで本発表では、初期時間論における予持概念と『ベルナウ』の予持概念との比較を 行い、両者が異なることを示す。考察の手順としては、まず全集X巻のNr. 45を解釈するこ とで初期時間論におけるProtentionの特徴を吟味し(第一節)、それが初期時間論の他の箇 所にも当てはまることを示し(第二節)、その特徴について吟味する(第三節)。そして 『ベルナウ』における予持概念を考察し(第四節)、これを初期時間論の予持概念と比較 する(第五節)。

* 本発表におけるフッサール時間論の時代区分はXXXIII巻のR. ベルネとD. ローマーの連 名によるEinleitungの見解に依っている。このEinleitungにおいては1905-1911年の期間が初期 時間論に振り分けられ、1917-1918年の『ベルナウ草稿』(以下『ベルナウ』と表記)が中期 時間論の中心テクストとして考えられている。ゆえに本発表では、便宜的に、1917年以降 は中期と見做し、1916年以前は初期と見做す。

**D.ローマー、「フッサールのベルナウ草稿につながる予持の分析――予持は何を“予持” するのか?」、『フッサール研究』所収、第二号、浜渦辰二訳、2004年、191‐206頁。 谷徹、『意識の自然』、勁草書房、1998年。
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by husserl_studies | 2016-01-21 19:55 | 研究発表要旨
加藤康郎「現象学的美学の可能性について」
美学という学問は、1750年にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン(1714-1762)がその著書『美学(Aesthetica)』を発表したときを以って始まるとされる。
その考え方は、「芸術の本領は美にあり、美は感性により認識される」というものであり、「芸術、美、感性の同心円的構造」を前提とするものであった。つまりそれは、その基盤が「感性」にあることからも、また著作のタイトルからもわかるとおり、まさに「感性学」として成立したのである。
しかし皮肉なことに、その後、このような学を取り巻く環境は大きく変化してゆく。つまり「美しくない芸術」が登場し、それどころか昨今では、「芸術」という概念さえ、曖昧でとらえどころのないものになってきている。
そしてこうした状況のなかで、これまで「美学」と呼ばれてきた学問にもさまざまな批判が寄せられ、根本的な反省を迫られるようになったのである。「芸術は美を目指す」という考え方は妥当であろうか、といったこともそうした批判や反省のひとつである。
この発表では、以上のような現状把握に立って、現象学的美学の可能性について、すなわち芸術作品が体現しようとしているものを「美」から「真」に、すなわち「真理」、「真実」に置き換えることの可能性について検討したいと考える。
発表では、斎藤慶典『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』を手がかりとして、まず美しくはない作品の例、それも極端なケースとして、技量を伴わず、色彩もない、二歳女児の絵を取り上げ、そのような作品がいささかでも人を感動させることがありうるとしたら、それはなぜなのかを明らかにする。
つぎに、そこで得た結果を『存在と時間』第44節の内容(ハイデガーの真理論)と比較しつつ、その「真理の輝きとしての美」という考え方が、演劇、および戯曲・小説などの文芸の芸術論において有効であることを説明する。事例として、日本の伝統的な演劇・文芸を取り上げるが、これは日本の伝統芸術の美学の中心を占める歌論すなわち和歌の美学に対して、演劇・文芸についての新たな美学の可能性を探るものでもある。
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by husserl_studies | 2015-02-02 13:05 | 研究発表要旨
石井雅巳「『全体性と無限』における享受論の実在論的読解ーレヴィナスはいかなる意味で現象学的か」
本発表の狙いは、国内における一連の現象学的実在論にかんする研究に依拠しつつ、レ ヴィナス『全体性と無限』(1961 年)第二部――いわゆる享受論――をある一つの現象学的 実在論の試みとして描き出すことである。とはいえ、レヴィナスは『全体性と無限』にお いて、現象学的実在論を展開したミュンヘン・ゲッチンゲン学派の面々に明示的に言及す ることはない。それゆえ、本発表は、思想史的な影響関係の解明というよりは、インガル デンらの議論を補助線に使いつつ、レヴィナスの記述をいかなる現象学的な態度として受 け取るかという事柄の理解を議論の争点とする。
レヴィナスが処女作『フッサール現象学の直観理論』(1930 年)から一貫してフッサール 現象学から恩恵を受けつつも、フッサールの観念論的−観想的立場に警鐘を鳴らすという両 義的な立場を取っていたことはよく知られているが、こうした立場は、フッサールの観念 論に対立し、実在論を現象学として肯定するインガルデンらと同じ方向を向いているもの と言える。本発表では、『全体性と無限』第二部における1フッサールに見出される表象 の優位についての批判、2身体性への着目によって可能になる、表象の次元から享受の次 元への転換、3享受による我々及びその知覚に対する条件づけ、4我々の生の内容であり、 享受の対象である糧とその実在(外在性)の肯定を可能にする元基(élément)といった論点 を取り上げ、レヴィナスによるフッサール批判の眼目を吟味した上で、享受の対象のもつ 実在性にかんする議論を現象学的記述として分析する。
レヴィナスの記述を現象学における観念論/実在論という枠組みで捉えることで、フッ サール現象学にとって本質的とも言える、構成や意味付与などを含めた志向性の議論を批 判しつつも、なぜレヴィナスは『全体性と無限』が「全面的に現象学的な方法に負ってい る」と述べることが出来るのか、というこれまでレヴィナス研究者たちを悩ませてきた問 いに一定の回答を与えることができるだろう。本発表は、上記の仕方でレヴィナスの記述 を正当化し、享受論そのものの理解を一歩先へと進めたい。
フッサールの観念論に対立し、身体性に着目しつつ実在を肯定する点で、レヴィナスと インガルデンは共闘関係にあると言えるが、両者の間に大きな隔たりがあることも事実で ある。本発表ではこの点にも触れ、ミュンヘン・ゲッチンゲン学派とは別の仕方で、現象 学的実在論を探求することも試みる。
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by husserl_studies | 2015-02-02 13:04 | 研究発表要旨
高山佳子「フッサールの倫理思想とケアの倫理―生活世界に位置づくケアの倫理の原理的探求に向けて」
本発表は、ケアの倫理をフッサールの「生活世界」概念と接続することがねらいである。心理学者キャロル・ギリガンが主著『もうひとつの声』(Gilligan,1982)において提起した「ケアの倫理(an ethic of care)」は、男性中心の社会的価値規範への問い直しを含んだジェンダーの視点を喚起し、公正な論理的推論による正義の倫理と対比されるかたちでケア対正義論争とよばれる活発な議論を呼んできた。正義の倫理は権利主体としての自律した個人を前提とし、論理形式的推論によって財の公正な配分を指向する権利の倫理であるのに対し、ケアの倫理は、他者との相互依存関係を前提とし、他者を配慮し応答することを指向する責任(応答可能性)の倫理であるとされている。しかしながら、この論争における2つの倫理の関係は、ギリガンの本来の意図に反して、正義の倫理=男性の道徳性、ケアの倫理=女性の道徳性という生物学的決定論にもとづくジェンダーの見方によって規定されている。その際、ケアの倫理は女性に特有の感情的・個人主義的な道徳として、普遍主義にたつ正義の倫理を補完する周縁的位置づけにおかれることになる。ギリガンは、そのようなケアの倫理の見方は家父長的パラダイムにもとづくものであると批判し、「ケアの倫理のいかなる議論も枠づけの問題とともに始めなくてはならない」と述べて従来の枠組みの見方からのパラダイムシフトを主張している。パーソナリティ発達の観点からアイデンティティ形成と道徳性との関係を重視するギリガンにおいて、人間の自律とその道徳性は、男女にかかわりなく、正義の倫理とケアの倫理とが不可分な2つのアスペクトとして対等かつ相補的に作用してはじめて可能になるものであり、ケアの倫理は人間生活の基本である関係性にかかわる点で万人に妥当する倫理と考えられている。こうしたギリガンの本来の主張を正しく捉え、ケアの倫理を万人に妥当する関係性の倫理として主張するためには、正義の倫理とケアの倫理の関係をパラダイムシフトの視点から新たに捉えなおすとともに、ケアの倫理を哲学的原理的に探求していく作業が不可欠であろう。そのための重要な糸口となると思われるのがフッサールの倫理思想である。
本発表では、ギリガンのケアの倫理をフッサールの「生活世界」概念と接続し、フッサールの『倫理学入門 1920/1924年夏学期講義』における理論と実践の捉えなおしに関する議論を中心に、ケアの倫理を生活世界に位置づく実践理性としてフッサールの生の倫理学のもとで哲学的原理的に探究していくことの意義を示したい。
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by husserl_studies | 2015-02-02 13:03 | 研究発表要旨
Nicola Liberati "The Borg-eye and the We-I”
The aim of my work is to analyse the possibility of the production of a collective living body [Leib] thanks to wearable computers and to probe what such innovation yields.
Nowadays the topic of collectivite subjects raises interest in the phenomenological research and there are many new studies concerning collective intentionality and collective emotions. These works focusses their attention on the “nature” of a plural subject in a “We-form” instead of a more classic conception of a single subject related to an “I-form”.
However, even if these studies tackle the problem of a plural subject, they start from the assumption of an I- form subject as a basic element in perception. They start from the assumption that a perception of a subject is private ad that the sole subject who is experiencing the world is living in his living body. Therefore, they assume a kind of “private” status of the subject’s perception and in the subject’s bodily life.
This assumption was quite valid in the past because nobody had a direct perception of something as if they were in someone other’s place. However, today this kind of privacy cannot be assumed so easily because there are new digital devices which aim to spy on everybody’s life as no previous technologies ever did.
Wearable computers are clearly designed to graft computer devices in our body and in our clothes intertwining the human body with digital technologies.
Even now our spatial position is recorded passively by personal devices such as our smartphone, but wearable computing will bring this embryonic feature to a higher level and they will spy on our life from the within of our body. For example, Google Glass will “mount” on us a webcam aiming to record our entire life, computerised bracelets will record our heartbeat and smart watches our hand gestures. Therefore, we cannot be blind to the possibility of having a shared experience where a whole community has access to our own vision, to our emotional state and to our hand gestures.
We have to take into account a we-form subject from the very beginning by analysing the possibility of having a common Leib and common experiences.
My analysis will study what these new technologies can do to our living body and if it is possible to talk of a common living body shared by an entire community who actually lives and perceives through us. Moreover, I will study if these new technologies can be seen as part of new computerised living body and if they work as digital organ mounted on us.
I will ask, and try to answer, these two questions.
Is it possible to have a common living body composed by shared perceptual digital organs?
Is it possible to have a Borg-like living body where the simplest thing as “your experience” turns into “our experience” and where the “I” has to be substituted by the “We” of “the Collective”?
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by husserl_studies | 2015-02-02 13:02 | 研究発表要旨