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(4) 谷口純子
求心路遮断後のゼスチャーに見るゼスチャーと言語の問題



「外的空間において身体を動かすために、外的空間や身体をvisualizeする必要はな
い。」

身体運動とgesture、gestureの言語的な機能について論じてメルロ=ポンティは上のような仮説を立てた。この文章が書かれてから、長い年月を経た現在、この文章の反例とも思われるような1つの症例に注目してみたい。

19歳のときに首より下の感覚を失った男性がいた。麻痺はなく、運動神経線維にも問題がないが、proprioceptionのfeedbackを欠くため、歩行・食事・着衣、一切の日常動作が出来ない。既知の症例・治療法はなく予後は不明、とされた。原因として、一種の免疫障害による求心路の遮断が想定された。一生車椅子の生活と誰もが考えた。ところが、この患者はしばらくすると、手段的な日常動作を回復した。ただし彼の日常動作は常にvisual attentionの意識的に活用によってなされた。そのため動作回復後も、暗闇では手段的動作が一切出来なかった。日常動作にもぎこちなさが残った。ところが驚くべきことに、彼のgestureはこの運動障害の影響を受けない。手段的動作と違い例え暗闇であっても彼のgestureは<流暢>であった。

gestureについては相反する2つの立場がある。一方はゼスチャーは手段的動作の単なる補完子に過ぎないと考え、他方はゼスチャーにcommunicativeな機能を強く認めspeechに準じるものと考える。上記の症例は後者の仮説を支持している。他にも幼児においてはspeechとgestureの発達に一致が見られるし、先天盲者においてもgestureは一般者と大きな差がないことが報告されている。これに関連して脳科学においてもSpeechとgestureの両方にかかわる脳の領域を想定する立場がある。

これらの考察を追った後には、この症例が冒頭のMerleau-Pontyの反例というよりは、その仮説を拡張しながら支持するものであることが分かる。

研究発表では、現象学や認知心理学が身体性を考える際に用いたbody-schema、body-imageといった概念を確認し、問題を整理していくが、最終的な結論があるとすれば、身体こそが表現を生成し、そのことによって我々は言語の生成に参加させられる。そして、このようなプロセスを促進するのは<私>と同様のシステムを備えている他者である、という現象学らしいものになると思う。
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by husserl_studies | 2006-01-04 23:22 | 研究発表要旨
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