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(2)齋藤 暢人
発生的現象学における論理と存在論




周知のようにフッサールは『論理学研究』(とくにその第三研究)において「形式的存在論」のアイディアを提示し、その具体的な展開を一部試みた。しかしその後、フッサールの思想が着実に成熟し、いわゆる超越論的現象学や発生的現象学といった独自の哲学的立場に結実するに至ったとき、この初期のプログラムは現象学という知の一大システムのどこに位置づけられることになったのだろうか。今回は『論理学研究』との関連性が比較的明瞭な『経験と判断』の現象学的判断論に注目し、その内容を形式的存在論的な観点から検討して上の問いに答えるとともに、現象学的な論理思想、あるいは「論理学の現象学」の可能性について考えてみたい。まず次のことを確認する。『経験と判断』のなかで『論理学研究』の形式的存在論を直接引き継いだ議論はごく限られている。そもそもの形式的存在論の実態はいわゆるメレオロジーとみなされる全体部分論と基づけの形式的理論であったが、これが論じられるのは第30節から第33節までの部分を中心とした箇所にすぎない。だが、このことは、現象学的哲学の発展につれて論理に対するフッサールの関心が後退し、その痕跡をとどめるのみになった、ということを意味しない。それは次の理由による。現代の論理学者たち(ウカゼイヴィッチら)によれば、形式的論理学、いわゆる伝統的論理学は極めて簡明な公理系によって把握される。重要なのは、これが「一般名のメレオロジー」として解釈されうる、ということである。フッサールが展開した全体部分論はメレオロジーとして、またそれに等しい「個体計算」として解釈できるが、これらの「メレオロジー的理論」は全体部分関係に関する形式的理論という性格を共有している。すると、『経験と判断』のメインテーマが全体部分論ではなく、形式的論理学に登場する判断の形式の分析であったとしても、ここにはやはりメレオロジー的構造が潜んでいると考えられるのではないか。つまり、『経験と判断』における現象学的判断論は、論理的経験のなかに埋蔵された(メレオロジー的構造を含む)形式的存在論的構造の分析なのではないか。形式的論理学を一般名のメレオロジーとみる流儀は、形式的論理学の起源に位置するアリストテレス的論理とその存在論の関係に由来する。したがって、現象学的判断論の基底にメレオロジー的構造を想定すれば、
現象学における論理と存在論の関係が明らかになるであろう。また、発生的現象学的分析についてはふたつの代表例、否定と判断の「沈澱」を採り上げる。これらの現象を形式的論理学的文脈において検討すると、それは見た目以上に複雑な構造をもっていることが分かる。こうした現象に対するフッサールのアプローチから、今日においてもこれらが依然として重要な根本問題であることが窺われる。
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by husserl_studies | 2006-01-04 23:18 | 研究発表要旨
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