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加藤康郎「現象学的美学の可能性について」
美学という学問は、1750年にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン(1714-1762)がその著書『美学(Aesthetica)』を発表したときを以って始まるとされる。
その考え方は、「芸術の本領は美にあり、美は感性により認識される」というものであり、「芸術、美、感性の同心円的構造」を前提とするものであった。つまりそれは、その基盤が「感性」にあることからも、また著作のタイトルからもわかるとおり、まさに「感性学」として成立したのである。
しかし皮肉なことに、その後、このような学を取り巻く環境は大きく変化してゆく。つまり「美しくない芸術」が登場し、それどころか昨今では、「芸術」という概念さえ、曖昧でとらえどころのないものになってきている。
そしてこうした状況のなかで、これまで「美学」と呼ばれてきた学問にもさまざまな批判が寄せられ、根本的な反省を迫られるようになったのである。「芸術は美を目指す」という考え方は妥当であろうか、といったこともそうした批判や反省のひとつである。
この発表では、以上のような現状把握に立って、現象学的美学の可能性について、すなわち芸術作品が体現しようとしているものを「美」から「真」に、すなわち「真理」、「真実」に置き換えることの可能性について検討したいと考える。
発表では、斎藤慶典『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』を手がかりとして、まず美しくはない作品の例、それも極端なケースとして、技量を伴わず、色彩もない、二歳女児の絵を取り上げ、そのような作品がいささかでも人を感動させることがありうるとしたら、それはなぜなのかを明らかにする。
つぎに、そこで得た結果を『存在と時間』第44節の内容(ハイデガーの真理論)と比較しつつ、その「真理の輝きとしての美」という考え方が、演劇、および戯曲・小説などの文芸の芸術論において有効であることを説明する。事例として、日本の伝統的な演劇・文芸を取り上げるが、これは日本の伝統芸術の美学の中心を占める歌論すなわち和歌の美学に対して、演劇・文芸についての新たな美学の可能性を探るものでもある。
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by husserl_studies | 2015-02-02 13:05 | 研究発表要旨
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