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シンポジウム 村田憲郎 レジュメ
自由のメディアとしての身体
 ―― カント、ベルクソンからフッサールへ




消極的な「…からの自由」ではなく積極的な「…への自由」であり、知性的でありながら概念的・抽象的ではなく、感性的でありながら衝動的・盲目的ではないような自由のあり方はいかにして可能か。「フッサールと実践理性」というテーマにちなんで、本発表では、哲学史、とりわけカントとベルクソンの力を借りながら、フッサールにおける自由と身体との関係を、こうした問いを導きの糸として考察してみたい。
自由の問題は、自然的な諸事象のもとでの原因と結果との必然的な継起、つまり因果性との対比において考えられてきた。ごくごく大雑把に言って、フッサールにおける「因果性」と「動機づけ」という対概念は、カントにおける自然因果性と自由因果性という対概念の類比物として捉えることができるだろう。しかしカントにおいては、自由が有限な人間存在においては直観不可能なものにとどまっており、それゆえ自由は直接的には意識されず、叡知的な道徳法則を介して間接的に示されるものにとどまっている。
これに対してベルクソンは、純粋持続という概念をもちこむことによって、自由を単に要請されるものではなく、直観において見出される、いわば現にそこにある具体的な事実ないし事態として捉えなおしながら、かつ、自然的因果性の必然的な連関から解放することができた。つまりベルクソンは、物理的・機械論的因果性の決定性に従わない実在としての純粋持続を、「意識に直接的に与えられたもの」のうちに認めることによって、自由を単なる概念ではなく、程度の差はあれ具体的に見出されうるような、非決定性の領域として確保したのである。とはいえ、この領域がもっぱら意識の領域として確保されてしまうと、自らの内面に引きこもることが自由であるかのような印象を与えてしまう。そこで重要な契機となってくるのが、身体である。実際『意識に直接与えられたものについての試論』に続く『物質と記憶』においては、私たちの行動の道具としての身体の分析に多くの紙面が割かれている。そこでは、身体は知覚イマージュの一つとして他の物質との相互的な影響関係のうちにありながら、私たちが内側から感知することのできる唯一の知覚イマージュである。つまり、身体は自然界の因果的・機械論的な連関に対して、行動に有用な面だけを取り出して、非決定性としての意識の領野へともたらす媒体物、メディアなのである。
本発表では、カントとベルクソンをこのように対比させた上で、ベルクソンの議論に引きつけて、フッサールの身体論を捉えなおしてみたい。身体は、因果性を動機づけに、動機づけを因果性に変換する「変換点Umschlagstelle」である。自然的な因果性は、私たちが生活する実践的領域に、身体を媒介として意味的な「条件性(Konditionalität)」として入ってきて、動機づけの連関の諸契機をなす。しかしまた、動機づけには精神的な諸作用の所産としての理念もまた参与しており、こうした諸契機が混ざり合って自由の領域としての人間的な環境世界を形成しているのである。
最後に、時間論的見地から、フッサールにおける物理的世界と精神的な環境世界との関係を捉えなおす。物理的世界は精神的な環境世界に対して、その土台をなし、「基づける」関係にあるが、この「基づけ」において付け加わっていくのは、身体的行動と時間意識の所産である「習慣性」であるという解釈を試みてみたい。
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by husserl_studies | 2006-03-10 06:38
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